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二ビル通信

えげつない問題を勝手気ままに取り上げるブログ


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右翼思想の源流


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挨拶

国学という言葉は、現代ではあまり関心を持たれないようです。ただ日本文化を考える上で、大きなキーポイントになることは確かでしょう。国学というと、賀茂真淵本居宣長平田篤胤の名はよく出ますが、国学の四大人の筆頭に位置する荷田春満(1669-1736)の名や業績はそれほど知られていません。しかし彼が活躍した17世紀後期から18世紀前期の「前期国学」は、国学の揺籃期の問題だけではなく、近世学問の確立や社会の展開を考える上でも重要ですし、彼はそこに大きな足跡を残しました。

荷田春満が、京都伏見稲荷社の社家の出身で、古典研究や和歌を通じて古来の日本文化や神道の究明を志していたことはすでに知られていました。ただ、彼はそれだけではなく、「唐ハ聖人ノ国、日本ハ神ノ国ト云ハ、却ッテ小サキ了簡」と主張して、和漢の知識を総合しながら日本文化を研究するという学問体系を構想し、八代将軍徳川吉宗の文教政策に協力して古書や漢籍の調査蒐集に当たり、律令の研究を命じられ、幕府儒者林鳳岡が判らなかった漢籍を解き明かして吉宗に報告するなどの業績をもち、歴史的に武家政権を批判する思想をもっていました。一方で、和歌・歴史・律令を研究・教育する「倭学校」の設立を構想していました。春満は、本居宣長以降とは異なり、和漢の総合的な学問の中で、日本の歴史・文化・伝統を追求しようとした「総合的人文学」ともいうべき学問を目指していました。本研究の目的は、春満の学問の検証・解析を進めることによって、わが国における総合的人文学の萌芽を17世紀後期から18世紀前期の近世前期国学の中に探求しようとするものです。

私たちは、國學院大學創立120周年記念事業として編纂された『新編荷田春満全集』全12巻(おうふう刊)に関わる中で、春満の生家である東羽倉家の史料を、京都市の東丸神社のご厚意で閲覧を許され、編集作業とは別に、平成15年度から科学研究費補助を受けて「近世国学の展開と荷田春満の史料的研究」(課題番号15320086)に取り組み、東羽倉家文書の整理と調査を行いました。その後平成19年度・20年度と國學院大學特別推進研究補助、21年度には國學院大學文学部共同研究費補助を受けながら調査・研究を続け、平成22年度から科学研究費補助を受けて「近世における前期国学の総合的研究」(課題番号22320130)を推進し、研究会と調査を続けています。

このホームページ では、荷田春満に代表される「前期国学」が、近世学問の形成に果した役割や位置づけのみならず、近世の文化や社会・政治にも大きな影響を与えていたことを、学際的・総合的に検討を加えて明らかにするとともに、重要な史料を順次公開し、今後の研究の発展に寄与したいと考えています。

最後に、東羽倉家文書を所蔵される東丸神社の松村準二宮司ご夫妻はじめ、さまざまな方々のご協力とご支援に深謝申し上げます。


権藤成卿を思い出す。権藤は農本主義者だとか無政府主義者だとか言われる。それはそれで当たっている面もあるだろうが、私は権藤は国学系譜に数えられるべき人物ではないかと思っている。権藤成卿の父、権藤直は国学者であった。権藤成卿にもその影響が垣間見えることは『夜明け前』の世界観を踏まえることで見えてくるのではないか。
 権藤は政府をプロシアの影響によるものと断じ、政府を否定し社稷を主張した論客だからである。権藤は「官治」と呼び、政府の上からの支配を嫌った。その上で「国民衣食住の安泰、男女の調和を永遠に保証」されれば、共産主義のような「凶猛危険なる思潮」も栄えることはない、と言う。「一郷一邑の自治を、其民衆生活の上に鞏め、共存共済を以て、其福祉を斉うし、善く文明の利器を応用して、常に進歩一級を前め居れば、其秩序は何の危惧もなく保持される」と考えた(『自治民範』『権藤成卿著作集 第一巻』203頁)。権藤は古来国の統治には二種類あると言う。一つは「生民の自治に任せ、王者は唯だ儀範を示して、之に善き感化を与ふる」もの、もう一つは「一切のことを王者自ら取り切って、万機を総理する」ものである(『権藤成卿著作集 第二巻』27頁)。権藤の統治論は儒学的影響を感じさせつつも、独特のものであることがわかる。商売や搾取のない時代からやり直す、という『夜明け前』国学的世界観に近い。また、権藤は王政復古の首唱者は竹内式部と山県大貮であろうとしたうえで、彼らの言う王政復古とは上貴から堂上公卿全てが学を修め徳を磨き、皇祖皇宗の遺典を遵行すべきことにあるとした。しかしその王政復古の実行期に諸藩の力を借りたことで勤王は単なる名分となってしまったと説いている(『権藤成卿著作集 第四巻』160頁)。上古の風俗は「祭政一致」であるとし、この思想は支那の上古に社稷を重んじたのと全く一致しているとした(同204頁)。先ほども述べたように、権藤は政府と社稷(≒社会)を峻別し、社稷のほうを擁護した。政府は社会の為に行動することもあるかもしれない。だがそうではなく政府自身の為に動くこともあり得る。そういう突き放した目で見ることも必要である。「「社会」もしくは「公共」の代りに、「国家」をもって来て、日本の官僚は平気で居る」(『権藤成卿著作集 第七巻』290頁)と権藤は不満を漏らしている。
 第二章第二節でも触れたとおり、蓑田は権藤をマルクス主義者、無政府主義者と断じているが、その批判はあまり成立していないように思われる。むしろ私などは権藤を否定するならば今の政府をプロシア的であると言い切ったところを否定すればよかったのではないかと思ってしまう。だが蓑田はそうしなかった。あくまでも現状を変革する思想はマルクス主義者だと言い切らなければならないと考えていたからではないだろうか。権藤は座談会で、「私は唯綺麗なものが欲しいのです」(『権藤成卿著作集 第三巻』174頁)と述べ、政党や官僚は無論、軍閥による強力政治すら否定した。五・一五事件のとき、橘孝三郎はあえて軍蜂起に加わらず、同志と変電所を破壊し東京を暗闇にするという計画を立てた。
 国学儒学に批判的だと思われている。それゆえ儒学的な教養の強い権藤に国学の発想も見られると私が言っても違和感を持たれる方もいるかもしれない。だが、国学は叙述の仕方に於いても、古きに理想を置きそこに立ち返ることを目指す発想も、元来儒学から得たもののはずだ。

 本節で取り上げてきた人物は誰もみな拝金主義から遠い。そして資本主義を肯定する立場からも遠い。彼らのよりどころとした「何か」は人それぞれだが、しかし誰も金銭以上の価値を信じ、そこに日本の将来を託していた。そこから自らが理想とする社会を描いていったのである。


【ウヨの系譜】全ては水戸黄門から始まった!

明治初年ごろに日本中のお寺を焼いてまわったという恐怖の「廃仏毀釈」のことを書いていて、どうもそのルーツは、この人↓

水戸光圀こと徳川光圀
このおっちゃんがある日作り始めた「大日本史」というのが、天皇こそ日本の中心、天皇こそが正義で、逆らうものは悪、賊であるという歴史観を打ち出し、明治維新や太平洋戦争を経て、現在のウヨのルーツになってるんですよ。簡単に言うと。

まあ、だいたい、そのストーリーは知ってたんですけど、ではなぜ、この人が、そんなものを作り始めたのか?

そもそも、光圀は、1626年生まれ。徳川御三家のひとつ、水戸藩の初代藩主・徳川頼房の三男に生まれ、2代目藩主になるんですが、1626年といえば、今年がちょうど400年目にあたる、あの1615年の大坂夏の陣の10年後、つまり、当時の「戦後世代」ですよ。

若いころ、なんと辻斬りとか遊郭通いとか、けっこうヤンチャだったこの人が、あるとき、有名な司馬遷の「史記」を読んで、歴史に「目覚め」ちゃったのが全ての始まり。

まあ、日本も平和になったこっちゃし、ちゃんとした歴史書でも作るか、と始めたのはいいけど、常時50人以上の人間を動員して朝から晩まで書かせ、かつ、日本中に調査員も送り込んだので、その経費はハンパなく、幕末に至るまでの水戸藩の慢性赤字の原因になったそうです。

で、経費も経費なんですが、お手本の司馬遷の「史記」っていうのは、なんと、紀元前2世紀に中国(漢王朝)で書かれたやつなんですが、年代順に歴史を記述する、いわゆる「編年体」ではなく、王やその后、家臣などを順番に並べ、個々のストーリーを書いていく「紀伝体」だったんで、「大日本史」もそのスタイルに決定!

ということで、結局、日本バージョンは、神武天皇以来の歴代天皇ベースになっていくわけですよ。

実際、古代から続いてるのは天皇家だけだし…。

なので、もう結論は出てしまってますが、天皇中心史観の最大の原因はそこ。

だけど、無理がありますよね。
ご存知のとおり、平安時代末期、平家が実権を握り、そして源氏、足利氏、戦国、江戸と、正直、もう天皇は主役ではなくなってしまった時代を、当時の天皇や公家の話で語るのは無理がある。

ましてや、武家政治の究極の姿を作った張本人の徳川家の重要人物が、いまさら、日本は天皇の国でございました、というストーリーを構築するのもどうなのよと思います。

はっきりゆって、平和な世の中になり、ヒマだった光圀さんの趣味じゃないですか??

それを裏付ける事実として、実は、黄門伝説とは裏腹に、光圀は、生涯、水戸と江戸を行ったり来たりしたのが基本で、一度だけ、鎌倉に行ったことはあるものの、その他の地方に行ったことがなかった。逆に、家来に日本中調査させた部分に尾ひれがついて、黄門伝説が生まれたとされますが、皆さんお気づきでしょうか?

本当に光圀が、天皇家こそ日本の中心である素晴らしい血統だと思ってたのなら、いろいろ制約はあったにせよ、一度くらい、京都御所に拝謁に行ってもよかったんじゃないの? と思うのはボクだけ???

っていうか、当時の幕府は、朝廷の封じ込め政策をやってたわけですが、それに反対したという話も聞かないw。

でもしかし、実は明治になってやっと完成したという大日本史ですが、明治維新に与えた影響は想像以上でした。それが具体化したのが、有名な「水戸天狗党」ですよ。

まあ、話が多少それましたが、日本、中国、韓国、北朝鮮という、実は、世界で4つしかない、漢字文化圏の国の全てが、お互いに反発しあってるのは一体なんなんだといつも思います。

中韓が接近すると、北朝鮮は嫉妬し、サンケイとアメリカは韓国を叩く。ネトウヨももちろん大騒ぎw。

それはいろいろ、歴史的経緯なり、過去のイデオロギー対立なり、東西冷戦の残滓なりありますが、今回の世界同時株安を見ても、米中も日本も切っても切れない状況なのに、なぜそこまで新冷戦とかいうような騒ぎ方をするのかさっぱりわからない。

いっつも言ってるけど、そんなに中国がヤバいなら、早く日米は企業も投資も引き上げ、東証やNYは中国株の売買を禁止すればいい。もちろん観光客の爆買いも禁止w。

できないでしょ、そんなことw。 ('-^*)/



ネトウヨ儒教を蔑視したがる理由は本当に理解に苦しむ。国学のことを考えたとしても、日本の右翼思想の源流の中で水戸学と崎門学派は絶対無視出来ない筈なんだが。


日本の右翼思想の源流は、徳川幕府開幕の時期に遡る。

徳川家康儒教による国家統治を考え、朱子学を導入したがこの朱子学には「尊皇斥覇」(そんのうせきは)の思想があり、開幕当初から林道春等によって「公武合体論」が論議された。

儒教思想から「天皇中心主義」「国粋主義」を導いた「闇斎学」「水戸学」は、儒教正統派の朱子学やリアルな徂徠学と比べて反体制的な思想に過ぎなかった。


天皇家が元来外からきたことを前提にして、その神道を仏教や儒教と重ねあわせてみると、日本の文化がどのようにしてなったのかがわかりそうな気がします。自分たちにも「外」からきた血が相当まじっているはずであることを考慮しつつ。

儒教(右翼の根幹思想)の国のタカジン同様に右翼、だし。上岡の下で長年キャリアをつんだ放送作家だし。関西人だし。ね。ベストセラー請け合い人となればいうことなし。

儒教というのは右翼思想と互換性を強く持つので、朝鮮・九州といった儒教色の強い
地方の出身者から、より右翼はでてくるわけだ。

右翼=儒教=中国思想 VS 左翼=社会主義=西欧思想の対決では空しいとは思わないか?。

江戸時代までの日本と明治カルト維新以降の日本は全く別の国
卑弥呼の時代から江戸時代までの日本は中国共存主義
明治以降は中国侵略主義
明治以降なぜ日本がおかしくなったのかと言うと教育勅語国家神道と言う名の儒教による洗脳


三島由紀夫VS東大全共闘 美と共同体と東大闘争』

天皇とフリーセックスと神人分離の思想

三島 実はね、この天皇の問題、少し長くなりますよ。いいですか。私は今の陛下についても、ほんとうは後宮をお持ちになった方がいいと思っている。(笑)それで、大体私の天皇観というのはいわゆる右翼の儒教天皇観と全然違うのですよ。古事記をよく読まれるとわかると思うのですが、古事記の下巻が仁徳天皇から始まっている。これは何を意味するかというと、仁徳天皇から儒教天皇像というものが、確立されちゃったわけです。そして「民のかまどはにぎわいにけり」というような感じの天皇像が確立しちゃった。それがずっと教育勅語まで糸をひいているわけですな。私は教育勅語におけるあの徳目を一番とにかく裏切っているのは古事記における天皇だと思うのですよ。「父母に孝に兄弟に友に」と書いてあるけれども、古事記天皇というのは兄弟が平気で殺し合うし、父母をちっとも尊敬してない。それから不道徳のかぎりを尽されている天皇もあるわけだ。ところが古事記では一番私のみるところで重要なのは中問にあ日本武尊神話だと思っている。古事記の中であの日本武尊だけが皇太子であるにもかかわらず天皇と同じ敬称で呼ばれている。これは天皇自身も自分の皇子のことを人神だと呼んでおられる。
これはどういうことを意味するかといいますと、日本武尊のお父さんの景行天皇がある時に田舎へ行かれて、非常な美女を見染められた。これを宮廷へつれてこようと思って日本武尊のお兄さんにあの女をつれて参れとこうおっしゃった。ところがお兄さんが途中でその女をやっちゃって自分のメカケにし、隠れちゃった。そして天皇のところへは別の女をつれて行ってこれでございますと言ったので、景行天皇はムッとされたけれども何も言われないでそのままに放置され、その女には冷たくされた。そして弟の小碓命すなわち日本武尊はかねがね兄さんのやり方はひどいものだと思っていた。ある時朝ごはんにお兄さんおおうすのみこと
大碓命が出てこないので、天皇が、「どうして朝ごはんに出てこないのか、おまえ行って見てこい」と日本武尊に言うのですね。そうすると日本武尊がはばかりに入っている兄さんをいきなりとっつかまえて八つざきにして殺してしまう、こういうような話が出てきて、天皇はこれについて非常におそれおののいて日本武尊をよその土地へ征伐に出してしまう。非常に危険な征服の戦争です。そうするとやっと戦功をたてて帰ってくるとまたあぶないところに出してしまう。それで、日本武尊伊勢神宮に行って叔母さんの倭比売に天皇は私に死ねとおっしゃ
るのじゃなかろうかと言って泣いて嘆くところが出てきます。これを私は古事記の中で非常に重要な箇処だと思うのは、あそこでいわゆる統治的天皇と神としての天皇とが分れてしまったのだ。神人分離ということがあそこで起ったのじゃないかと思われる。
私の言う天皇というのはその統治的な人間天皇のことを言っているのじゃないのだ。人間天皇というのは統治的天皇ですから儒教的原理にしばられて、それこそ明治維新以後あるいはキリスト教にもしばられたでしょう。一夫一婦制を守られて国民の道徳の規範となっておられる。これは非常に人間とし
て不自然だ。私は陛下が万葉集時代の陛下のような自由なフリー・セックスの陛下であってほしいと思っている。それが私の天皇像で、これがそのまま生かされるるかどうかわかりませんが、私が人間天皇という時には統治的天皇・権力形態としての天皇を意味しているわけです。だから私は天皇というものに昔の神ながらの天皇というものの一つの流れをもう一度再現したいと思っているわけです。