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二ビル通信

えげつない問題を勝手気ままに取り上げるブログ


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簡単な巫女の歴史、ヒマラヤ聖者は虚構


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最近の新しい巫女のことはよく知りませんが、大陸にあった高天原高句麗国の神宮)の時代から、2千年以上巫女神道を伝承してきたとされる当家では、死ぬまで現役の巫女も大勢いますよ。

たとえば、卑弥呼なども祭祀を行う高齢の人だったとされていますよね。神功皇后天照大神・荒魂・瀬織津姫に神憑りして、夫の忠哀天皇に向かって神意を伝える描写が記紀神話に残っています。結婚しても現役の巫女です。このような巫女は、近年広く見られる神職の祭祀を補助する?巫女と違って、神そのものと心身一体の状態になって託宣する最も重要な役目を担ってきた斎の巫女です。斎の巫女とは、神の霊が依憑く(いつく)巫女のこととされます。斎の巫女の王のことを斎王と言い、神道界の頂点に立つ女性を指します。神職の手伝いをする立場の現代の一般の?巫女は、なぜか20代でやめることが多いようですが、斎の巫女には定年などありません。

というより、一般の巫女って、どのような存在なのでしょう?神道上どういう分類なんでしょうね?(笑)2千年以上巫女神道を伝える当家では、一般の巫女?という概念が存在しません。誰かが素人考えの思い付きで、神道の伝統を無視して、勝手に我流のルールを作って広めてしまったようです。おそらく、神道とは何か、本質を理解していない僧侶達が、形だけ神職の服装で神前で神事の真似事(所作)をするようになってから生まれた、神仏混淆以降のことと思います。

本来の巫女は、祖先神と心身一体の状態になって神座に座る現人神(生き神)のことです。祭祀を受ける側の巫女神よりも、男性の神職のほうが社会的な地位が上だと認識すること自体が、非常識です。神職が巫女に対して奉仕するならあり得ますが、逆に、信仰対象である巫女が、人間である神職の下に仕えて奉仕するなど、ナンセンスです。たとえば、私が祭壇に足をかけてもお尻を乗せても、神事が始まる前にお供え物を少し口にしてくつろいでいても、当家の者は誰一人咎めません。でも、同じことを神職がやれば、明治維新の前なら不敬を理由に斬首されたことでしょう。今でも、礼拝所不敬罪という法律の適用を受ける社会的に許されない行為でしょう。神座(神様が居るべき場所)に座る巫女や巫(かんなぎ・依り代となる男性)はいても、神座に我がもの顔で腰を下ろす神職などいはしません。私達は神社の参道の真ん中を普通に歩きますが、神職は神事で依り代(御神体)を捧げ持っているとき以外は、神の通り道を避けて真ん中を歩くことを避けます。祀る側と祀られる側では、立場も許される立ち居振る舞いも全く異なります。両者が混同されることはありません。それが逆転している現在の一般の神社の姿は、あまりにも不自然で見苦しいと感じます。

沖縄などにも、古い和人(倭人)文化圏の風習が残っていますが、男王よりも斎王のほうが、社会的地位が上とされてきました。神功皇后に対して忠哀天皇が琴を奏でた(臣下の礼を取ることを表すえん曲表現)ように、卑弥呼に男王が仕えていたように、本来、男王は斎王から王権を授けられる立場にあったので、社会的地位は下なのです。皇室が男系の継承を重視してきたのに、皇祖神が女神の天照大神とされていることからも、女系継承の巫女神道から皇室神道が派生した流れがはっきりと見て取れますよね。

奈良時代になって仏教が伝来して唐風化が進んだ結果、神道界に神職の衣装を着た仏教徒の男性が入り込んで来て、女性が主宰していた祭祀の場を勝手に取り仕切って作り変えていきました。その結果、巫女が祭祀の中心から外されて、女人の立ち入りを制限するような事態まで生まれます。これによって、巫女が神と心身一体の状態になって神意を伝えていた、本来の神道精神文化が破壊されていったのです。祝詞を唱えて祭祀の所作(真似事)だけ行う、神の精神が伴わない様式へと変質していきました。第二次世界大戦が終わってから、巫女や女性神職の復活が見られますが、神の精神を復活出来たケースはありません。現代の本職?とされる巫女の大部分が、神の依り代としての本来の巫女の役割を果たせない、奉納の巫女舞をする形だけの存在になっています。

20代で巫女が引退、というシキタリは、伝統的な巫女神道とは無関係です。現代風の神道を担う方々に言わせると、頭の中身が奈良時代以前の古さなのかもしれませんが、多くの巫女は神道精神文化の担い手と言えなくなってしまい、本質から外れています。斎の巫女以外の、神事を執り行うための雑務を担う女性は、当家では巫女とは呼びません。本来は巫女(現人神)の衣装を着ることは許されていませんでした。当家でも表向き、一般参拝者用の神社では、簡易的な巫女の衣装を着せていますが、正式な非公開神事では、本来の斎の巫女の衣装(御神服)は、現人神とされる本物の日の巫女以外は着用出来ないシキタリです。


「ヒマラヤ聖者」は存在しない。

もう何十年も昔の話になる。10代の終わり頃に熱中して読んだのが「竜王文庫」と「霞ヶ関書房」の一連の出版物だ。私が神智学に興味を持つきっかけとなった書物である。最近、今でも「ヒマラヤ聖者の生活探求」や「エメラルド・タブレット」は結構人気があり、読み継がれているのを知った。AMAZONの書評でも高評価を得ている。特に「ヒマラヤ聖者の生活探求」は、若い精神世界の読者にはバイブル扱いされているようだ。今回はこの著作について再考してみたい。
まず、実は、私も(恥ずかしながら)最初はこの本を実話だと思い込んでいた。その後「ある種のチャネリング本」であることを神智学の先輩から教えてもらい初めて知った。それでも、内容に価値あることは疑いもしなかった。この記事でも「チャネリング本」だから内容も誤謬であるなどど言うつもりは毛頭ない。そんなことをいったらシュタイナーを含め神智学は全て誤謬になってしまう(笑)。ただ、時間が経つにつれ、この本にはある種の危うさがあるのが分かってきた。それは、ヒマラヤ聖者であるはずの大師がさまざまな物質化現象を行う記述があることである。ところが、本物の大師の教えであるアグニヨガでは「物質化現象」は黒魔術の一種であると断言しているのである。ヒマラヤ聖者が本物の聖者なら黒魔術を行うだろうか?

キリストは「石をパンに変えてみろ」という悪魔の誘惑を退け、石をパンを変えなかった。もし、変えていたら悪魔の手中に嵌っていたのだ。禅という映画の中で「米がありません」という弟子からの訴えに道元は「なら白湯を啜って禅を組みましょう」と答えている。空中から米を出現させたりはしていないのだ。福音書でキリストが四千人にパンを食べさせた話しがあるが、このパンとは「宇宙的生命」を象徴的に示しており、実物の麦でできたパンのことではない。聖者は「物質化現象」とは無縁なのである。なぜなら、(あるがままの)自然界は「物質化現象」なぞ望んでおらず、このような奇跡を望む「願望」もしくは「欲望」は「霊性」とは無縁だからである。野のユリはソロモンの栄華に勝るのである。

最後にいわゆる「ヒマラヤ聖者」の住む地や「秘教真義」に出てくるシャンバラとは何かについて。これらの実体はヘミシンクでいうフォーカスの低い世界に人間の想念が作り上げた世界(ある種の擬似天国)だと、私は考えている。