二ビル通信

えげつない問題を勝手気ままに取り上げるブログ


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日本における東アジア大陸文化の拡散


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尊王思想の研究16―大日本帝国憲法教育勅語


幕末の国難に対して、尊王攘夷を起爆剤にして明治維新が起こりました。しかし、新政府の要人たちは、幕末の経験を経て、尊王攘夷が近代の世界では何の役にも立たないことを知りました。明治政府が、尊王攘夷を捨てて、日本の近代化に進んだのはみなさん御存知の通りです。


しかし、尊王思想は地底のマグマのように、明治の日本に影響を与えつづけます。特に、大日本帝国憲法天皇像は、尊王思想とセットで考えなければ、誤ります。


憲法制定

明治政府が、国民の権利を圧殺して、統制的な国家を造ろうとしていた、という考え方は今では否定されています。現在の研究では、五箇条の御誓文の精神にのっとって、制限君主制、公選の議会を作ることは全日本人の総意であり、明治における様々な対立は、それを実現する主体は誰になるか、政府・軍・国民などのうち誰に、より多くの権力を与えるかの対立であったと考えられているようです。


教科書にはよく「プロシア型の憲法」と言う言葉が出てきますが、これはすぐにイギリス型の議会を前面に出した憲法を採用することに「急進的ではないか」という心配があり、それと比べれば日本と国情が似たプロシアを真似るのなら無理のない「漸進主義」のように見えたというのが実情だったみたいです。「プロシア憲法」とは、ともあればイギリスやフランス型の憲法試案を持って迫る民権派に対して、政府が主導権を握るための、象徴的な盾だったようです。


憲法制定の主導権は、紆余曲折を経て政府の中ではむしろリベラルな陣営に握られます。明治19(1886)年末頃から、伊藤博文のもと、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎、H・ロエスレル、A・モッセなどが制定の事業に取りかかりました。


憲法と国体

この制定事業で問題になったのは「国体」の扱いでした。井上毅がこれにこだわりました。
尊王思想の研究10―大政委任論」で見たように、尊王思想の天皇とは、象徴的な存在で、西洋近代に負けない伝統と神聖な優越性に価値がありました。そして尊王思想では、実際の政治は天皇から将軍、あるいは新政府が天皇からの委任を受けて行うので、制限君主制自体には、尊王家は異論ありません。


憲法における国体の扱いにたいする井上毅の主張を見ると、尊王思想がとてもメンタルなものであったことが分かります。


井上毅によると、日本の主権は開闢以来皇祖とそれを受け継ぐ天皇にあった。皇祖と天皇の「君徳」が、臣下の心に現れて政治を行う。即ち、臣下が誠心誠意政治を行えば、それは天皇の意思を表したことになる。つまり、天皇の意思は誰にも知ることができないが、誠心誠意政治をして成果が上がればそれは天皇の意思であったことが証明されるわけであり、天皇が主権を持って政治を行ったと同じことになるというのです。従って、井上毅にとっては、実際に天皇は全く政治にタッチしなくても、憲法の条文上は天皇が主権者でなければならなかったのでした。


この場合、失政は、臣下の心に曇りがあったのが理由となります。天皇陛下がすることに間違いがあってはならないからです。失政があった場合、それは臣下の責任となります。これが「第3条―天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の意味です。神聖不可侵とは、天皇は責任を負わないという意味です。


私は、天皇機関説を調べたことはないのですが、尊王思想の国体論から、虚飾を取り去ったものと考えれば良いのではないでしょうか。「天皇の心が臣下に表れる」を、「理念上は、国政とは全て天皇の御心となっているけれども、実際は臣下が憲法に従って、自分で考えて行動する、天皇憲法に従ってそれにお墨付きを与える機関である。」というものではなかろうか。


つまり天皇機関説とは国体論のぶっちゃけた話なんですね。今の私達にとってはどうでもいいことなのですが、国体論を信奉する人にとっては、これは許しがたいことでした。今まで見てきたように、尊王思想の天皇像とは架空の存在ですから、虚飾を剥がれたら何も残らないのです。そのため、尊皇家はないものをあると一心に主張しなければならないわけです。


ここまで来れば、尊王家のいう「天皇親政」とは何であるかがお分かりになると思います。心の正しい臣下が、誠心誠意政治を行っている状態です。心正しい者が政治をすれば、それは自動的に天皇の御心にかなっている、といいたいわけです。


となると、ひとたび尊王家が「俺は正しい心の持ち主だ」と信じてしまえば「俺は天皇と同じ心である(→私は天皇であるから何をしても構わない)」と短絡するのは時間の問題でしょう。


教育勅語の魔力

教育勅語は明治23(1890)年10月30日に下付されました。これは儒教的徳目を並べ立てただけで、学校に下付された勅語ですから法的拘束力は何もありません。しかし、それに対して敬礼を拒んだ内村鑑三は、一時社会的に抹殺されるところまで追い詰められました。戦争中に、学校で教育勅語が特別な扱いを受けていたのは、良く聞く話です。教育勅語の魔力とは一体なんだったのでしょうか?


これは、憲法制定によって、天皇制も欧米の法制度によって規定されるようになったことに対する、尊王思想からの反論です。天皇の存在の根拠は、儒教的徳目にあることの宣言と言えます。「尊王思想の研究12―国体と忠孝一致の発明」において、天皇と道徳的価値観の一体化が起こったと書きましたが、その「道徳」を改めて宣言したものといえます。


いくら近代化が進んでも、日本人一般が従っていたのは近世以来の伝統的考えです。その中で儒教的徳目は大きなウェートを占めています。それゆえ、日本人は欧米からの借り物の法律と、教育勅語の二者択一を迫られれば、教育勅語を選択せざるを得ません。


近代化によって陰に追いやられてしまった、明治国家のアイデンティティーの根源が教育勅語にあります。従って、教育勅語は不可解な魔力を発揮するのです。



切腹は仏教文化

仏教の荒行に今も残る「切腹の掟」は自殺教唆にあたるのか?

比叡山延暦寺に伝わる「千日回峰行」に挑んでいる滋賀県大津市の善住院の釜堀浩元住職が10月21日未明に最後の荒行である「堂入り」を無事に終えたというニュースが、21日放送の「ミヤネ屋」などメディアで大きく取り上げられている。

 この「堂入り」を終えると「生き仏」になったとされるが、合計1000日、期間にすると9年間にも及ぶこの荒行は、いったいどのようなものなのか。
 金峯山修験本宗慈眼寺の住職、塩沼亮潤氏は、1999年に吉野山金峯山寺1300年の歴史で2人目となる大峯千日回峰行を満行。その修行の内容を著書『人生生涯小僧のこころ』(致知出版社/刊)に記している。

■往復48キロを1000日間 まさに命がけの荒行
 それによると、この行では奈良県金峯山寺から大峯山の頂上にある大峯山上本堂までの 往復48キロの山道を1000日間、1日も休まず歩き続ける。
 ただ、1000日といっても連続しているわけではなく、毎年山が開かれている5月3日から9月22日までの間に行うため、1000日を満行するまでに約9年間かかるという。距離的にも過酷だが、その道程は高低差1300メートルの険しい山道だ。地理的条件は、前述の釜堀氏が行った延暦寺の「千日回峰行」よりも厳しいという声もあるほどで、それを期間中は毎日上り下りするのだから、心身への負担は想像を絶するものがあるだろう。

■やめることができない「千日回峰行」の本当の厳しさ
 そしてこの「千日回峰行」の大きなポイントは「途中でやめることが許されない」点だ。
 一度行に入ったら、1000日の荒行をやり遂げなければならず、その覚悟の証のように行者は常に短刀と紐を携帯するという。これは、途中で行をやめる場合、腹を掻き切るか、首をくくって命を絶たなければならないとする掟があるからだ。
 塩沼氏の場合、この行を見事にやり遂げたわけだが、その途中で何度も死にかけたことがあると記しており、途中でやめたら死なねばならず、やり遂げるのも命がけ、というすさまじい厳しさを垣間見ることができる。

■「途中で行をやめたら自死」は自殺教唆にあたるのか?
 しかし、俗世間に生きる身として「途中でやめるなら切腹か首つり」という掟は「自殺教唆」にあたらないの?と考える人は少なくないはずだ。
 この疑問について、都内を中心に活動する弁護士のAさんに意見を聞いてみたところ、「行者の方がもともと自殺の意思をお持ちで、お一人で自由な意思のもと自害された場合は自殺教唆罪にはなりませんが、例えば行者の方にもともと自殺の意思がなかったのに、周囲の人が暗に『自殺しろ』とそそのかしたりして自害されたのであれば、自殺教唆罪か、場合によっては殺人罪も可能性としてはありえると思います。宗教の教義にどう書いていようと、自殺をそそのかした点は刑罰の対象になりますので。ただ、実際問題として現在の日本で、周囲の宗教家たちが自殺をそそのかすことはあまり考えにくいので、自殺教唆罪にはあたりにくいのではないでしょうか」という回答を得ることができた。
 「千日回峰行」の挫折による自殺は、宗教上の教義に則って「自分の意思で死を選んだ」という扱いになる可能性が高いようだ。

 『人生生涯小僧のこころ』では塩沼氏の半生と修行の体験談、そこで得た気づきや学びなどがつづられ、信仰の道を歩むことで磨いた同氏の精神性と心に触れることができる。
 世俗化が進んでいる近年の仏教界だが、世間と隔絶されたなかで過酷な修行に励む人々もいまだ存在する。身も心も信仰に捧げる仏教徒の考えに触れることは、現代に生きる私たちにとって、少なくとも非常に新鮮な体験となるだろう。


日本の武人階級(武士/侍)の禅仏教が自殺の観念に影響を及ぼしました。日本の国民的シンボルの桜の花は、短いけれど極めて美しい命を象徴しており、それぞれの命が、美しいけれど強いられた死の中で完成します。日本人は今も儚さを意識しています。

 この背景において「切腹」は集団の名誉のための儀式的な自殺で、「義理」の究極の形と言うことが出来ます。そのような捧げられた死は、倫理的な共同体を示しています。キリスト教でこの儀式は、キリスト受難の伝統の延長である殉教者に関してだけ、考えられ得ます。
 切腹は1870年に公式には禁止されましたが、その肯定的な評価は今も存続しています。


切腹」。

これは日本ならではの風習ですね。

時代劇などでも出てくる、身近でありながら、一般人にはその背景がいまいちわかり難い風習でもあります。

単純に自死するだけなのに、どうして腹を切るのか、どうして服装なども含めた儀式のような手順が必要なのか、知りたい部分はたくさんあります。

日本人の背景にある死生観や文化について触れながら、切腹に近づいてみましょう。


日本人の死生観は、死んでも霊魂は残るという「霊魂不滅型」の考えです。

死ぬことは、価値観の変わった世界へ行くことだと考えていますから、わりあいに楽しんでといいますか、さっぱりと死んでいきます。

その発想に輪をかけたのが、仏教の「往生思想」です。



中国伝統文化と日本 (二)
大紀元日本3月18日】華やかな唐(618~907)の前に、隋(581~618)という短いながらも興味深い時代があった。隋の氏姓は楊である。その祖は、後漢の政治家・楊震(ようしん、54~124)に当たるという。確証は、ない。ただし、隋を創立した楊堅(ようけん、541~604)がそのように称していたので、楊震を模範とすることが隋の国是になった。(ただし、実行できたのは楊堅の治世のみであるが)

 楊震は政治家として有能であっただけでなく、人品すぐれ、学問を尊び、忠義にあつく、賄賂も受け取らないという、あまりにも理想的な人物であった。それゆえ敵も多かったのであろう。讒言を信じた安帝によって職務から遠ざけられた楊震は、無念のあまり、服毒自決を遂げる。

 それから約500年の後、隋の楊堅(文帝)は、楊震の理想を具現するかのように、国家創立と内政改革の大事業を一代で成し遂げる。その意味で、楊堅は十分に名君であったといっていい。

 ただし偉大な父に反して、その次代は中国史に名を残す暗愚な暴君であった。名を煬帝(ようだい、569~618)という。父の存命中は質素倹約に努めていた煬帝だが、父帝の死後、自身が即位すると豹変し、恐るべき正体を見せる。

 その煬帝を激怒させたのが、607年、小野妹子を大使とする遣隋使が持参した日本からの国書であった。

 「日出ずる処の天子」

 記録としては、日本側の『日本書紀』にその記載はなく、中国側の『隋書』にあるのみである。

 「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。つつがなきや」

 隋からみれば格下の東夷の島国である日本が、あろうことか対等の口ぶりで国交樹立を申し入れてきた(第2回遣隋使)。

 これに煬帝が怒らないはずはないが、このあたりの歴史は、日本側から先に見たほうがよい。

 推古天皇の摂政となった聖徳太子(574~622)は国政に携わる要職に就いていたが、政治の実権は、蘇我馬子をはじめとする蘇我氏に握られていた。そこで聖徳太子は、対外的に朝鮮半島百済に力を入れていた蘇我氏に対抗して、朝鮮半島の背後にある隋と直接国交を結ぶことにより、蘇我氏よりも優位に立とうとしたのである。

 そこで先ほどの煬帝を怒らせた国書に話を戻すのだが、聖徳太子は、どうも煬帝の反応を見越した上で、このような国書を送ったらしいのだ。

 当時、隋は北方の騎馬民族である高句麗討伐に手を焼いていた。結局、日本と対峙しないほうがよい、ということになり、怒った煬帝が日本討伐の遠征軍を出すことはなかった。

 聖徳太子は、東アジアの国際情勢をそこまで読みきって、この度の遣隋使を出した。だとすれば、聖徳太子の外交手腕は、現代的観点からしても驚くべきものがある。

 もちろん、隋に敵対することが聖徳太子の本意ではない。そのことは、国家制度や仏教文化をはじめ、多くの先進文化を中国大陸から輸入した彼の業績をみれば明らかであろう。 

 ゆるやかに進む歴史

 大まかな印象だが、歴史が急速に進むのは、およそ19世紀以後からのことらしい。それまでの人類の歴史は、現代人が想像できないほどゆるやかに、動きの見えない大河のように進んでいた。

 先述した蘇我氏の打倒も、実際に達成されるのは約40年後の大化の改新に至ってからである。ただし歴史は、確実に連続していた。小野妹子の第2回遣隋使に随行した留学僧・南淵請安(みなぶちのしょうあん、生没年不詳)は、そのまま32年の長きにわたって中国に留まり、隋滅亡から唐建国に至るまでを見聞してから640年に帰国する。

 その南淵請安の門下で学んだのが、後に大化の改新の中心人物となる中大兄皇子藤原鎌足であった。二人は、師の請安から聞く唐土の話に興奮しながら、やがて自らが決行する「革命」の計画を練っていたのかもしれない。

 当たり前のことだが、遣唐使の前には遣隋使があり、またそのような国家事業として派遣された使節団以外にも、少なからぬ人々が日本から大陸へ渡り、また大陸から来日して帰化日本人となっていた。

 中国大陸や朝鮮半島で王朝交代があれば、必ず被迫害者の一群が出現し、逃げるように日本へ渡ってきたのである。

 ずっと後世になるが、漢民族の明が倒れ、満州族の清が成立した17世紀半ばにも、明に仕えていた多くの文人が、日本へ亡命して来た。

 明の儒学者朱舜水(しゅしゅんすい、1600~1682)もその一人である。朱舜水は、台湾に渡って明朝再興を目指す鄭成功(ていせいこう、1624~1662)の使者として、救援を求めるため、徳川幕府鎖国下にある日本に派遣されていたが、やがて復明運動を諦めて亡命。水戸藩徳川光圀に招かれて、長崎から江戸へ移住する。

 その後、朱舜水が日本に伝えた学識は、水戸学への思想的影響にとどまらず、広く日本の財産となった。

 赤穂浪士孟子の末裔

 今日が3月14日ということで思い出した。忠臣蔵の発端となる江戸城松の廊下での刃傷事件が起きたのは、元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)である。

 浅野内匠頭は即日切腹播州赤穂藩は改易。しかし、もう一方の吉良上野介はお咎めなし。亡君の無念を晴らすため、1年7カ月の後、赤穂四十七士が吉良邸へ討ち入った。

 赤穂浪士の一人、武林隆重(通称、唯七)の祖父は、豊臣秀吉による遠征軍(文禄・慶長の役)で日本軍の捕虜となった明軍の中国人兵士・孟二寛(日本名、渡辺士武)である。

 孟二寛の遠祖をたどっていくと、古代中国の思想家・孟子(もうし、紀元前3世紀ごろ)にたどりつく。本当かどうかは分からない。ただ、そう思いこみ、そのように言い張ることで、中国人の血脈は「確定」する。

 日本人の理解を超える話だが、これが中国人にとっては圧倒的に重い意味をもつ価値観なのである。孔子の子孫の系譜などは(どこまで正確かは知る由もないが)現在83代に至っているらしい。

 それが漢民族の宗族主義というもので、男系中心の血脈を絶対的に重視する。したがって、日本人のように「家名」を存続させるため他家から婿を迎えたり、養子縁組をしたりすることは、中国人の発想にはない。そんな日中の明確な違いもあることは、比較文化論としてはおもしろいテーマになるだろう。

 いずれにしても、吉良上野介に二番太刀をつける武功を上げた武林唯七は、今も日本人の同志とともに、泉岳寺赤穂義士墓所に眠っている。ちなみに切腹の前、辞世の句を漢詩にしたためたのは、武林唯七ひとりであったという。

 日本史のなかの中国人

 本文は、純粋な文化論というよりも、歴史の中で中国人と日本人がどのように関わり合ってきたかを中心に述べている。執筆の意図としては、日中の両国の人々が、意外なところで、さして抵抗感もなく混在していたことを再確認できればいい、という程度だ。

 先ほども少し触れたが、大陸で明朝が滅んだ後、台湾を拠点に明の再興を目指した鄭成功は、今日でも、中国・台湾を問わず、民族的英雄として人気が高い。 

 鄭成功は、日本の平戸で、日本人女性を母として生まれた。その鄭成功を題材に描かれた近松門左衛門人形浄瑠璃国性爺合戦」は、史実からはほど遠い内容だが、和物の芝居のなかに異国の物語が展開されるのは珍しい。

 ある日、ふと通りかかった街角で、おもしろい表示板を見つけた。

 場所は、東京の上野広小路の近くである。明治21年(1888)に日本最初の喫茶店・可否茶館(かひさかん)が、この地にできたという。木造2階建ての洋館で、なかなか立派な建物だったらしい。

 表示板の説明に従うと、喫茶店の設立者の名は鄭永慶。この人物の先祖は、鄭成功の弟・七左衛門だという。

 表示板が立っていたのは、ある家電製品会社の植え込みの中だった。少し話を伺いたくて建物の中へ入り、受付の女性に申し出ると、出てきた社員の方が親切に応対してくれた。関連の書籍なども無料でいただき、謝意を述べて去った。

 明治の喫茶店で、うまいコーヒーを味わったような気がした。


古事記は古代中国思想

古事記』は、道教の宇宙生成論 錬金術による?

古事記』の序は、「道教の宇宙生成論」によって解説されているといいます。

「臣安萬侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象効れず、名も無く為も無く、誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて参神造化の首と作り、陰陽斯に開けて、二霊は羣品の祖と為れり。所以に幽と顕に出で入り日と月と目を洗ふに彰れ、海水に浮き沈みて、神祇は身を滌くに呈る。故、太素は杳冥なれども本つ教へに因りて土を孕み嶋を産みし時を識り、元始は綿ぱくなるけれども先の聖に頼りて神を生み人を立てし世を察れり。寔に知る、鏡を懸け珠を吐きて百の王相続ぎ、釼を喫み蛇を切りて万の神蕃息りしことを。安河に議りて天の下を平け、小濱に論ひて国土を清めたまひき。是を以ち番仁岐命、初めて高千嶺に降り、神倭天皇、秋津嶋に経歴りたまふ。」


?「幽と顕に出で入り日と月と目を洗ふに彰れ」と対をなす「海水に浮き沈みて、神祇は身を滌くに呈る。」は、
?中国『周易参同契』と共通の一連の「神生み」の記述を用いたもの。その他、道教の教理書の人類の歴史の始源を意味する語がしばし用いられている。

?中国神話における天地開闢(てんちかいびゃく)は、『史記』にも記載がなくその初めての記述は
?呉の時代(3世紀)に成立し た神話集『三五歴記』にある。

「盤古が死ぬと、その死体の頭は五岳に、その左目は太陽に、その右目は月に、その血液は海に、その毛髪は草木に、その涙が川に、その呼気が風に、その声が雷になった。」とある。



?呉の時代(3世紀)に成立し た神話集『三五歴記』
呉の時代について詳細はブログでも書きました?「⑥「神武東征」の神話と古代中国「南の船」文化の遺伝子分析から」

日本書紀』の「呉」は、現在の江蘇省蘇州、広い意味では蘇州を中心にした江南を指す。
また、中国六朝時代(222年 - 589年)三国時代の呉、東晋南朝の宋・斉・梁・陳の首都がおかれ、南朝の数百年の文化は、飛鳥から奈良期に至る古代日本にとって重要な影響を与えた。
道教の聖地でもあり、神学を形成した学者を生んだ地でもある。

?江南で造られる鏡の材料は、古い時代殆どが「銅」でした。

「銅」は古代の中国では呪術宗教的な霊力をもつとされ、「銅鏡と銅剣を二種の神器」とする道教の神学とともに密接な関係を持つ。
また「石上神宮の七支刀と稲荷山古墳の鉄剣」との縁もあり、江南の鍍金・鋳造の技術を基盤にし、「錬金術」も生み出された。

?道教の哲学の宇宙生成論で、「道は一を生じ」、一から三になって、三から五になって、五から七に展開していくという、そういう宇宙生成論からの思想が基盤にあり、神話集『三五歴記』もその思想から生じたものではないか?




?『古事記』 上つ巻 天地開闢 (書き下し文)
天地初めて発れし時に、高天原に成りし神の名は、天之御中主神
次に高御産巣日神、次に神産巣日神
此の三柱の神は、並に独神と成り坐して、身を隠しき。
次に、国稚く浮ける脂の如くして、くらげなすただよへる時に、
葦牙の如く萌え騰れる物に因りて成りし神の名は、
宇摩志阿斯訶備比古遅神、次に天之常立神。此の二柱の神も亦、
並に独神と成り坐して、身を隠しき。上の件の五柱の神は、別天津神ぞ。

?「国稚く浮ける脂の如くして」の「脂」というのは『抱朴子』金丹篇などの錬金術理論書の中で最も使われている言葉。道教の教理書では数種類の金属性の鉱物を溶鉱炉にたたえた水に入れて、高熱を加えると脂状になる。この「脂」という言葉が錬金術と関連して用いられる。

?「くらげなすただよへる時」のクラゲは漢字で「水母」と書きます。
「水母」という中国語は、クラゲという海の軟体動物を呼ぶ言葉と、錬金術における水銀を呼ぶ言葉と二つの意味で使われる。

?「葦牙の如く萌え騰れる物」の「葦牙(あしかび)」の「牙」は、錬金術における黄色い結晶物のことを「黄牙」黄色い葦牙と呼んでいる。

右矢印西暦2世紀、後漢の魏伯陽によって撰述されたという道教の神学教理書『周易参同契』に
「陰陽の始め、玄(みず=水)は黄牙(黄色の芽)を含む・・・・・金を水母(水銀)と為し、母は子を胎に隠す。水は金の子にして子は母の胞に蔵(かく)る。(胞胎より生まれ出でし)真人は、至妙にして有るが若(ごと)く亡きが若く、大いなる淵にほうふつとして、あるいは沈みあるいは浮かぶ」
つまり、道教錬金術において、大きな器に水を盛り、黒鉛などの鉱物をその中に入れて高熱を加えると、水母(くらげ)のように漂う水銀状の物質から黄色い葦の芽のような結晶体が化成して、それが神仙世界の真人つまり神にも匹敵する金丹となり、器の中の大海原を沈みつ浮きつするというのであり、そのことを「天之常立神」ら二柱の神の誕生になぞられたものであろうという。


中国「呉」の時代 「二種の神器」や「錬金術の技術思想」また、「宇宙生成論」が日本に伝わり、それを基に『古事記』が造られたのではないか?



日本の源流・太伯

実は、太伯が四国に渡って、四国の国産みをしたと主張する本がありましてね。私が秘かに追及しているテーマですが、本川神楽をもとにした中町子菊さんの四国王朝説、これを検証しているのあります。

そんな矢先、この本と出会っちゃって、沈んだスンダランド大陸の話にまで飛んじゃっています。日本の歴史やルーツに関する本は今、新説がバンバン出ているんですね。


内容の紹介

◎ この国の成り立ちから、皇室の由来まで、これまで語られてきたことが、ひっくり返る衝撃の論考!

◎ もはや日本史はここから新たにやり直すべき!

◎ この国の夜明け、オキナワの光芒――

国史は虚構の神話――その神話の開かずの扉を開き、神聖にして冒すべからず、タブーの世界へ!

天皇家と沖縄の深い関係――誰も見たことのない古代の知られざる風景がここに広がる

◎ 幻のスンダランドはオーストラリアに匹敵する大きさの大陸だった!

マレー半島からインドネシアにわたるスンダランドは理想の平和郷だった

◎ 一万二〇〇〇年前の地球規模の異常気象、大陸が海に沈みはじめた

◎ 海に沈む大陸をあとに瑞穂国へ向かった命がけの一大プロジェクト!

天孫族(天つ族)はスンダランドから黒潮に乗って沖縄へ

◎ 太平洋をとりまくアジア人の拡散がスンダランドから始まった

天孫族(天つ族)が辿り着いた沖縄こそが真の高天原

◎ 沖縄に残る数々の痕跡...ここまできたら認めるしかない!「民族北進説」

◎ 沖縄から出発すれば、日本の古代史の謎はスッキリ解ける!

◎ 古代中国「周」の御曹司・太伯は「ぐすくの築城」から「宝貝の交易」まで何でもこなす有能な人物!

◎ 太伯が魅了された宮古島には、歴史の謎を解く手がかりがいっぱい!

◎ 「漢倭奴国王印」に刻まれた「奴国」それこそが、太伯の国!

◎ 太伯と皇女との婚儀!

天皇家と太伯奴国には姻戚同盟が存在した!

◎ 古代中国・殷帝国を支えたのは沖縄産宝貝

邪馬台国の女王・卑弥呼は太伯の子孫だった!?