二ビル通信

えげつない問題を勝手気ままに取り上げるブログ


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偽善社会日本


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内容紹介
偽善社会 ――「やつら」はヘンだ

簡単に言えば「やつら」は、偉いと見なされているものや組織に媚び、生身の人々を無視する。独善系に特徴的なことは、二重規範(ダブルスタンダード)である。自分たちの保身イデオロギーと体面を守るときだけ「人権」を振りかざし、他者や死者の人権を貶める。自分でできもしない理屈と行動を、他人に強いる。「謝って済む問題ではない」と落ちた企業や人を死の淵まで追い込む記者たちが、誤報や失礼を繰り返しても謝りさえしない。
 どうでもいいことだが、私は、いつも自分のほうがヘンなのではないか、という懐疑から出発する。その懐疑を手離したら終わりだと思っている。それでも、長い熟考と取材の結果、やっぱり「やつらがヘンだ!」と確信できたものだけを本書に記した。先ほども申し上げたとおり、私は若い人や強くない人たちに「やつら」などという言葉は絶対に使わない。

偽善社会

 日本で(人を見たら泥棒と思え)という戒めが何時ごろ発生したのかしらないが、(渡る世間に鬼はなし)として人の善意を信じて生きてゆけと励ます言葉もある。終戦直後日本の荒廃した社会にアメリカには善意に満ちた人があるという話を満載したリーダーズ・ダイジェストという雑誌が出回っていたが、これは占領軍の政策に則って、アメリカはよい国であると日本人を洗脳するためのものであったと思える。
 アメリカはキリスト教の中でも新教に基準をおいて立国されているので、善とか悪の判断は、教会の牧師さんの解釈で決められるといってよいと思う。勿論アメリカでは9人の最高裁判所判事が国の憲法に基づいて多数決の判定を下す制度になっているが、構成している判事はほとんどがキリスト教者であるから、キリスト教牧師が口にする説教にもとるような判断が起こるはずがないと考えるのが自然であろう。
 キリスト教の根本教義では異教徒は人間扱いをしないということだから、博愛だの平和を望むなどのきれいごとを言っても、キリスト教徒の間に通用するだけで、他宗の人には武力で対決するのが原則である。いわゆる十字軍の意識で行動するということである。したがって、プロテスタント以外の宗教信者が創った国におせっかいを焼くにも独善的態度から抜け出すわけにはゆかない。
 イギリスから清教徒がアメリカに移住してきて、先住民族のインディアンを虫けらのように殺戮していんちきな条約を作ってインディアンをだますことを繰り返して土地を占領し自分のものにした歴史は学校では教えないというごまかしを続けて来た体質が綿綿として引き継がれているアメリカであるから、社会は嘘で固められたものにならざるを得ないわけであろう。
 このことは裁判所で被告が無罪を主張するのが当たり前であるということによく表れている。しかし、神に誓って真実を述べると宣誓してから供述をさせられるので、後から嘘がばれたら偽証罪に問われるという規則が必要なのがアメリカ社会というものである。
 犯罪の疑いで警察により取り調べを受けるとき拷問にかけて泥を吐かせるやり方では強制自白に追い込まれる可能性が大きいことがアメリカでも問題となり、人権を尊重するという建前から、取調べの際に弁護人をはべらすことが出来る権利があると告知する必要があるという法律ができてはいるし、黙秘権なるものも認められているのであるから、冤罪になることは少ないはずであるが、証人が間違って証言をすることがあるから、陪審員が有罪の判決を下すこともあり得るので、近年ではDNAによる物的証拠が重んじられるようになった。そのDNA鑑定により何年も有罪判決を受けて服役していた人が無罪になることがあり、ニュース種になることが後を絶たない。アメリカではまだ死刑をする州が何十もあるが、死刑判決に自信がもてないから死刑を取りやめる州も出ている。
 いずれにしろ世の中には職業や貧富に関係なく悪いことをする人に満ちている。中国では西暦の紀元前から孔子孟子などの思想家がいて孟子は(性善説)を唱えたが、その後間もなく荀子が(性悪説)を唱えるなど、人間性についてうがった観察をしている。人間は生きるためにはなんでもする本能が働いて、集団生活の秩序を保つための規則や法律を守る気持ちは無視する傾向が強いということである。良心の呵責があって悪事は働かないという人は少なくなっているのが現在の社会のようだ。むしろ悪事がばれて罪に問われないように巧妙に計画をして表面を飾るとか、嘘をつくのが慣わしになってしまったということであろう。
 日本には人の心の拠りどころとなる宗教として、古来からの神道に加えて、インドに発生して中国を経由して紀元600年ころ日本に渡来して国教として天皇家の後援をうけた仏教が一般民衆にも普及したわけであるが、本来の仏教思想は中国で道教儒教の影響で変化をしたものを、鑑真和上、伝教大師最澄弘法大師空海などが日本に導入して広めた。しかしながら、時が経つにつれて日本式仏教は大変貌を遂げてしまっている。今では、檀家の組織が希薄になり、仏教が日本人の宗教として信仰され、その訓えなどを日常生活に活かすという慣習は見られなくなったように思われる。お寺は葬式産業の一環を担ってやっと生存しているという格好である。
 日本では仏教の各宗派の他に新興宗教が多数できて、それぞれ信徒を獲得しているようだが、キリスト教徒は人口の1%にしか達していないといわれている。儒教を踏襲している韓国でキリスト教徒が30%くらいにも達している理由についての論考はあるようだが、嘘をつくのが平気である国民の習性と関係があるのではないかと愚考している。日本人はクリスマスを商業活動に利用しているだけで宗教とは関係のない「お祭り騒ぎ」をしているものである。年賀状にメリー・クリスマスなどの文言を相手構わず送りつける人は、無智で無神経であること表明しているとみられてもいたしかたがないであろうが、偽善社会の一員として行動しているということには違いない。


偽善者ばっかりの日本の現状。本当に腐ってる日本。
2012年10月21日
読め!!

MIXIでしょっちゅうおきていた出来事。


・虐待された子供たちがかわいそうじゃないんですか?
・あなたたちは子供たちの気持ちを考えたことないんじゃない?
・今困っている子供たちを助けることが大切なんです!


判りました。

あなたたちの気持ちはよ~~~~く判りました。

本当にあなたたちはいい人たちですね・・。

本当に優しい人ばっかり。日本も捨てたものじゃありません。

じゃあ、



 明日から困っているご家族がいないか、
 虐待されている子供がいないか地域を巡回して、
 もしいたら相談にのってあげたり、手伝ってあげたりしてあげてね。



向社会的行動が「偽善」と判断される時 ?推測された動機が及ぼす影響?
[責任発表者] 針原 素子:1
1:東京女子大学
目 的
 昨今、大きな自然災害の後には、必ずと言ってよいほど日本全国からボランティアが駆け付けるようになり、その自主的な援助に好意的な評価が報じられる。しかし一方で、ごく一部の援助行動に対し、“偽善者”などという否定的なレッテルが貼られることがあるのも事実である。本研究は、向社会的行動を行うことで、かえって印象が悪くなるようなことがあるかどうかを検討することを目的とする。
 偽善(hypocrisy)という概念は、哲学者の間で多く議論されており、ある行為が偽善と判断されるには、非一貫性を含んでいること、行為者の自己利益に役立つ行為であることが必要であるとされている(Alicke, Gordon, & Rose, 2013)。欧米における哲学者の議論や心理学における実証研究の多くは、望ましい態度を表明しながら、その態度を実行しないことを偽善として扱っている。日本においても、そのような人が偽善者と判断されるのは無論だが、それに加えて、望ましい態度を実行に移しているにも関わらず、その動機が利己的であると判断される場合、偽善と判断されてしまうと考えられる。本研究では、動機が利己的であると判断される場合、向社会的行動を行った方が、そのような行動を行わないよりもかえって印象が悪くなるのではないかとの予測を検討する。また、動機が明らかでない場合でも、向社会的行動の結果として行為者自身の利益が予測される場合には、デフォルトで利己的な動機が推測され、印象が悪くなるのではないかと予測する。
仮説
1)利己的動機に基づいて向社会的行動を行った人は、向社会的行動を行わない人よりも、かえって印象が悪くなるだろう。
2)向社会的行動を行った人の動機情報がない場合でも、向社会的行動が自己利益に結び付く場合、利己的動機が推測され、向社会的行動を行わない人よりも、かえって印象が悪くなるだろう。

方 法
 女子大学生90名を対象に、シナリオ実験を行った。シナリオでは、自己利益に結び付く向社会的行動として、芸能人がチャリティー番組の一環としてのアフリカ貧困地域訪問の仕事を引き受けるという行為を用いた。実験計画は1) 向社会的行動なし条件(チャリティー番組でなく、楽な旅番組の仕事の方を引き受ける)、2)動機情報なし・向社会的行動あり条件、3) 利己的動機情報あり・向社会的行動あり条件(「自分のイメージをよくしたい」という動機提示)、4) 利他的動機情報あり・向社会的行動あり条件(「貧困地域の役に立ちたい」という動機提示)、の4条件の実験参加者間要因であった。参加者は各シナリオを読んだ後、登場人物に対する印象17項目、行動を知って印象が良くなるか悪くなるか、偽善者だと思うか、仕事以外の場面で個人的に募金をすると思うかの予測について、それぞれ5件法で回答した。

結 果 と 考 察
 まず、動機条件の操作チェックのため、純粋に貧困地域の人々のことを思っての行動と思うか、自分のイメージをよくするための行動と思うかについての回答について、向社会的行動ありの3条件で1要因分散分析を行ったところ(表1参照)、利他的動機条件(M=2.77)に比べて、利己的動機条件(M=4.35)、情報なし条件(M=3.77)ともに利己的な動機が推測され、動機が明らかでない場合、デフォルトで利己的動機が推測されることが分かった。
次に、肯定的印象(やさしい人、利他的な人など6項目の平均)、否定的印象(ずる賢い人、利己的な人など5項目の平均)、印象悪化、偽善者判断、将来の利他的行動予測に対して、4条件の1要因分散分析を行った(表1参照)。
 仮説1について見てみると、利己的動機条件では、向社会的行動なし条件と比べて、肯定的印象、印象悪化、将来の利他行動予測では差が見られなかったが、より否定的印象が強く、偽善者判断されるという仮説を支持する結果が得られた。仮説2について見てみると、動機情報なし条件では、利他行動なし条件と比べて、印象悪化、将来の利他行動予測では差が見られず、より肯定的印象が強いという仮説と反対の結果が得られたが、同時に否定的印象が強く、偽善者判断されるという仮説と一致する結果も得られた。印象悪化や、将来の利他行動予測では、利他的動機条件以外の3条件に差は見られず、今回のシナリオのように、向社会的行動の結果が自己利益に結び付く場合、望ましい行動をしたとしても、利他的動機が明らかにならない限り、印象が良くなったり、一貫して利他的行動を取る人と判断されたりしないことが分かった。
今回の結果は、芸能人のチャリティー番組参加というシナリオを用いたために、芸能人に対するステレオタイプが働いた可能性もある。今後、より一般的なシナリオで追試をすると共に、向社会的行動の評価に推測された動機が及ぼす程度に文化差が見られるのか、それとも日本人に特有の傾向なのか、検討する必要があるだろう。


偽善者は口だけ良いことを述べる

口だけ良いことを述べて、自分の都合の悪いことを隠す人を「偽善者」と呼びますが、会社経営者の中にも偽善者だと判断できる人物は確実に存在します。

偽善者が好きな言葉の1つに「社会貢献」というものがあり、「我が社は慈善団体にお金を寄付しています」と堂々と公言する会社があります。

慈善団体に寄付すること自体は物凄く良いことなのですが、形だけの偽善に騙されてはいけませんよー。

会社の本質は「行っている事業」で決まります。

その会社の事業の社会的貢献度が高く、多くの人の役に立っているのであれば「社会貢献を成し遂げている」と評価することができますが、そうではないのなら寄付行為は間違いなくクリーンなイメージをアピールするための行動であり、ただの偽善です。

寄付をしたから全ての会社が善良であるとは限らず、中には「お客様の利益を考えない事業を行って表面上、寄付活動を継続する」という会社も存在するのです。

この世には偽善者が腐るほどいらっしゃいます。

偽善者を見抜くのは案外単純で、「言っていることと行っていることが矛盾していないか」という点を追求すれば本質を見抜くことができます。

例えば「社会貢献」や「人類繁栄」という壮大なテーマを掲げているのにもかかわらず、社員を違法労働という形で駆使していたり、お客様からお金を奪い取るビジネスを行ったりしている場合、ほぼ間違いなく偽善者であることを意識しなければいけません。

この世は綺麗な人間ばかりではないのですよ。

私は性格がひねくれているので、自ら「慈善団体に寄付しています」と述べる会社はまず、疑います。

なぜわざわざ公言する必要があるのかと。

偽善者の手口は単純です。

「表面上好感が持たれることを述べ、人の信頼を得ようとしているだけ」なので、偽善者の本質は実に薄っぺらいのですね。

行っている事業と慈善活動を照り合わせて相互に矛盾がなければ「本当に良い会社なんだな」と判断しますが、慈善活動ばかり強調して行っている事業が糞な場合、「自分の利益を高めるために表面上良い会社であることをアピールしているだけ」と捉えるのがお勧めです。

良いですか、詐欺師と偽善者は表面を良くするのですよ。

偽善者は都合の悪いことを言いません。

自分が都合が悪くなることを言わないから偽善者なんです。こういう人間はお腹が真っ黒である可能性が高く、怪しいと思ったらどんどん真実を追求してボロが出るまで偽善者を追い詰めるのが1番賢い行動になります。

大抵の場合、偽善者は自分の都合の悪いところを指摘されると「曖昧な回答」でお茶を濁すことが多いです。

だから偽善者は薄っぺらいと言われるのであり、私は「表面上の見栄えを良くしている人間」は全て信用に値しないと判断しています。

人間は誰でも自分が良く思われたいものであり、中にはちょっと無理して背伸びしちゃっている人も多々いらっしゃいますが、これはまだ可愛いものです。

本当に厄介なのは「自分の利益」を得るために口だけ良いことを述べる偽善者。

世の中は人の言っていることをそのまま信じてしまう人間が多いため、「表面上良いことを語る人間」が腐るほどいらっしゃいます。先ほど慈善団体への寄付の話をしましたが、慈善団体に寄付している企業が全て悪いと言っているわけではないのです。

「中には慈善活動を行っているとアピールし、見栄えを良くしているだけの薄っぺらい人間(会社)が存在するから気をつけましょうね」と述べているだけです。

賢明な投資家であり続けたければ「人の述べた言葉」をそのまま信用してはいけません。

人間の本質を探りたければ、どんどん質問を重ねて真実を追求することをお勧めいたします。

偽善者の場合いずれボロを出し、口だけ良いことを述べる無能というパターンが大半なので相互に価値を与える存在ではないことを理解する必要があります。





偽善社会の代償

1月の自殺者数は2,645人。先の東尋坊の芝氏のNPOは4か月で志願19人を保護とのこと(→記事)。この記事が暗示する「社会の矛盾や不条理のために自殺する」と言う理由付けは、自殺を究極的自己正当化手段とするものであり、かえって自己憐憫を増長させその数は増加するであろう。自分の生き方に間違いがなかったのか、自己批判や自己点検することもできない負け犬を増産するだけである。これも偽善がなせるジレンマである。

ちなみにHIV関係でも、2007年の新規HIV感染者数が1,048人(前年比96人の増加)エイズ発症者数は417人(→統計データ)。一日当たり4人弱がHIVに感染している。よくHIVの社会的偏見の問題が取り沙汰されるが、血友病などの場合を除き、要するに自分の意志を用いた結果を自分で刈り取っているだけなのだ。そのことを社会が意識すること事態は何ら差別でもない。むしろ「因果応報」のの意識を強く植えつける必要があるのだ。これも偽善がなせるジレンマである。

ちなみに"SAPIO3/11号"の特集「みんな偽善だ」は実に面白かった。お調子者のみのもんたや古館一郎ごときがニッポンを着実に壊していることになぜ大衆は気がつかない。さらに検察リークの情報をあたかも鬼の首を取ったように"報道"し"コメント"するテレビコメンテーターたち。今回の小沢氏つぶし捜査に対して大衆がどのような反応を示すかが、ニッポンの将来を決めると言ってもイイだろう。前に指摘した医療問題も同じ。結局国民が自らの命をもって愚かな選択の実を刈り取っているのだ。三島に倣ってこの国を改めて憂う。

追記:「入試問題を知的障害者でも解けるよう変更して」-知的障害者普通高校へ…配慮を求め要望書提出、とのニュースも。私は精神障害者は教会ではなく、しかるべき機関/施設に行きなさいと言っているが(→精神疾患と福音)、これで受け入れられなかったら人権派の弁護士とかが訴訟でもするのでしょうか?もしそんなことがあれば、すでにニッポンキリスト教は終っていますが、ニッポンも終りますね。


【社会】“日本の偽善” ASKA逮捕でジブリDVDが発売延期 海外から批判
1 :ニャー雄一 ★@転載禁止:2014/05/26(月) 22:21:04.23 ID:???0
CHAGE and ASKA」のASKA覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕されたことを受け、ユニバーサルミュージックは同デュオやASKAソロのCDやDVDなどの出荷を停止、回収すると発表した。
また、ウォルト・ディズニー・ジャパンも彼らの楽曲「On Your Mark」を収める予定だったBD/DVD-BOX「宮崎駿監督作品集」からこの曲の収録中止や既に彼らの曲入りで発売されていた
DVD「ジブリがいっぱい SPECIAL ショートショート」の出荷を停止する決断をした。
 今回の日本企業の動きに対して海外からは驚きの反応が相次いでおり、各国・地域における薬物に対する意識の違いが浮き彫りになっている。
【日本社会は薬物違反に対して厳しい?】
 ASKAの逮捕が社会的にマイナスイメージではあるものの、レコード会社らはこの話題性を逆手にとって売上を伸ばそうという気はないようだ、と海外ゲームサイト「Kotaku」は驚いている。
北米最大手のアニメ紹介サイト「アニメニューズネットワーク」も
社会への見せしめとして警察やメディアが一団となって徹底的に罰しようとする日本は厳しすぎるのではないかとの疑問を投げかており、両サイトの読者からは続々とコメントが寄せられている。
 特に欧米からは、アーティストが薬物を使用していることが発覚するたびに彼らの作品の販売をやめていたら店頭はほぼ空っぽになってしまう、という声が少なくない。
例えば、ビートルズポール・マッカートニーや、映画監督のオリバー・ストーン、女優のアンジェリーナ・ジョリーなど大勢の大物セレブがこれまでに薬物使用で逮捕されたりリハビリ施設に入ったりしているが、彼らが業界から消されることはない。
【作品やファンにまで罰を与えるのは馬鹿げている】
 日本に比べて薬物使用に寛容な欧米では、社会のルールを破ったことで、レコード会社との契約が打ち切られる等は理解できるが、
作品の販売停止で悲しむのはファンたちだとして、素晴らしい作品や無実のファンにまで影響がでるのは馬鹿げていると呆れる声も多く寄せられている。
日本社会の偽善っぷりは腹立たしいとまで訴える読者も相次いだ。
【支持する声も】
 一方で、日本社会の姿勢がどうであれ、欧米に比べて薬物が乱用されることの少ないのは事実なので、必ずしも批判できないとする意見もあるようだ。欧米ではセレブの薬物使用があまりにも日常化している上に、
子供達を含め、誰でも目にすることができるテレビや映画でさえも薬物の使用シーンがあるなど、その危険性を軽んじている傾向にあると指摘されている。
【罰するだけではなく支援も重要?】
 欧米では過去に薬物使用で逮捕されているセレブらが立ち直り、若者たちの見本として経験談を語ることが少なくない。むしろ苦しい経験に打ち勝ったことが評価され、
人々の支持を得ることができるようだ。この観点から言えば、日本は罪を厳しく罰するだけではなく、立ち直るための支援をもっとするべきだと指摘する声もあった。日本では「罪=恥」であり、
社会的にタブーとしているままでは根本的な解決にはならないのかもしれない。



少年犯罪の実名報道は偽善である
 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。
 『週刊新潮』の未成年犯罪者実名報道を批判する意見を『新潮45』に寄稿したところ、掲載拒否をされました。
 これまで反社会学講座などでやってきた私の流儀を踏襲し、事実に基づき感情論に流されず現実的な提言までしたつもりですが、自社批判が混じると、この程度の毒でもダメなんですねえ。
 せっかく書いたのにもったいないので、長文になりますが以下に全文を公開します。「人権」一辺倒の不毛な実名報道議論に一石を投じられれば嬉しいです。



少年犯罪の実名報道は偽善である

 テレビのニュースを見ていると、コンビニ強盗の報道がしょっちゅうある気がしませんか。実際、犯罪統計を調べてみたら毎年五〇〇件くらい起きてるので、私の気のせいではなかったようです。
 不思議ですよね。いまやコンビニの防犯カメラ設置率は一〇〇パーセントです。そんなことは強盗犯も知ってるはずです。
 なのに、なんでコンビニ強盗がなくならないの?
 別の日のニュースでは、ある地方自治体が、近年こどもの連れ去りなどの事件が増加しているので犯罪防止のため街中に防犯カメラをたくさん設置する案を検討中と報じていました。
 もし私がそこの住民だったら、すぐに役所にねじこみます。防犯カメラなんて税金のムダ遣いだからやめなさい、と。
 こういう現実的な提案は、なぜか世論の集中砲火をくらうもの。このひとでなし! こどもが犯罪に巻き込まれてもいいというのか!
 いいわけないでしょ。犯罪を許容しろだなんて、私はひとこともいってません。カメラを何台増やしたところで犯罪抑止効果はないからムダだ、と現実的な指摘をしてるだけです。
 そもそも、こどもの連れ去り事件はこの一〇年で半減していますし、連れ去り事件の半数は、離婚して親権を失った元親や親族など顔見知りによるものです。不審者・異常者による犯行は、ごくまれな例でしかありません。
 さらに重要な事実。防犯カメラというものは、映像をつねに監視している人がいて、はじめて防犯効果を発揮できるんです。映像を監視して、アヤシイ動きを発見したら即、対応することで、未然に犯行を防ぐ――つまり防犯が実現できるのです。
 リアルタイムで映像を監視している人がいなければ、それは単なる「記録カメラ」でしかありません。
 コンビニ強盗は、カネを奪って逃げられればよし、あとのことなど考えてません。だから「記録カメラ」に撮られることを気にせず犯行に及びます。
 以前起きた幼児誘拐事件では、こどもを連れた犯人の姿が街の「記録カメラ」に撮られてました。やはり犯人はカメラの存在を気にしてません。カメラに記録されてもすぐに通報されないから平気なんです。
 犯罪者は、カメラに記録されるリスクよりも、犯行で得られる利益を重視するものなんです。
 もちろん、記録された映像は犯人を特定する有力な証拠にはなります。ですからカメラは犯人逮捕には役立ちます。
 しかし、事件が起きてしまってから犯人を逮捕したところで、それは「防犯」とはいえません。防犯とは名ばかりの記録カメラをいくら増やしたところで、犯罪の抑止力にはならないのです。
     *
 さて、本題はここからです。防犯カメラの設置や販売をする業者や警備会社は偽善者ではないかと私は疑ってます。
 常時監視されていないカメラに犯罪抑止効果はほとんどなく、気休めにすぎないという事実を、彼らは顧客にきちんと説明しているのでしょうか。
 防犯カメラには防犯効果などないことを承知の上で売りつけたとしたら、それは詐欺まがいの商売です。
 防犯カメラに防犯効果があると心底信じて販売しているのなら、それは「偽善」です。
 ある行為が偽善であるかどうかは、結果で決まります。結果がすべてなんです。
 もしもあなたが、偽善か善かは動機によって決まると思ってたら、それはまちがい。倫理学のテストならバツ。サンカクもあげられません。
 金儲けや売名など不純な動機ではじめたことでも、結果的にだれかの役に立てたのならば、それは「善」なのです。
 よかれと思ってやったことでも、結果的にその行為がだれのためにもなっておらず、自己満足で終わっていたら、それは弁解の余地なく「偽善」です。
 日本のメディアでもっとも偽善叩きに熱心なのが『週刊新潮』。一九九九年までの主要雑誌記事見出しを調べると、見出しに「偽善」を使っている記事数では、『週刊新潮』が群を抜いて多いんです。
 昭和四四年、タクシーの乗車拒否追放運動でマスコミから注目された男にサギの前科があったことを突きとめ偽善と批判した記事を皮切りに、偽善叩きのパイオニアとして世の偽善と戦ってきた庶民の味方、それが『週刊新潮』なのです。
 その『週刊新潮』が、川崎で中学生を殺した一八歳少年の実名を報道したことで物議を醸したのは、先刻ご承知のとおり。
 この事件が最初というわけじゃありません。『週刊新潮』はこれまでもたびたび、凶悪犯罪を犯した未成年の実名や顔写真を掲載してきました。他にも過去に未成年の実名報道をした雑誌はあります。ただし、『週刊新潮』は昭和三〇年代末から一貫して少年法改正を主張し続けています。その熱意において他誌を一歩も二歩もリードしています。
 少年法改正を訴え続けている『週刊新潮』。暴力団生活保護不正受給をいちはやく糾弾したのも『週刊新潮』。朝日新聞を叩き続ける『週刊新潮』。よのなかの偽善を叩き続けるその編集方針は、よくいえばブレがない。悪くいえばねちねちしつこい。
 とまあ、たっぷりゴマをすっておいたところで、あえていわせていただきます。
 ずいぶん前から未成年犯罪者の実名報道をしてきたのに、なんで相変わらず少年による凶悪犯罪は起きてるのですか?
     *
 いまや実名報道は雑誌メディアだけのお家芸ではなくなりました。ネットでも、凶悪事件を起こした少年の個人情報や顔写真は晒されます。ネットも雑誌も記録が永久に残る点では同じですが、ネットはだれもが気軽に情報にアクセスできますから、報道よりもずっと重い制裁だともいえます。
 IT社会に生きるいまの少年たちは、凶悪な犯罪に手を染めて捕まれば、そうした制裁を受けるであろうリスクを承知しているはずです。
 なのに、なぜ未成年による凶悪犯罪はなくならず、性懲りもなく起きるのでしょう?
 その理由は明らかです。未成年犯罪者の実名報道や顔写真を晒すことは、まったく犯罪の抑止力になっていないのです。
 戦前の少年法でも未成年の実名報道は規制されてました。でも当時の新聞を読むと、たびたび実名報道がされてます。戦前は実名でなく仮名での報道もかなり混じってるのでややこしいのですが、戦前もいまも状況は基本的に一緒。実名報道が少年犯罪を抑止した気配はまるで感じられません。
 長期的には、少年犯罪は減少傾向にあります。しかしそれが実名報道のおかげだとはいえません。それは現行の少年法が立派に機能している証拠だ、と反論されたらどうします?
 少年犯罪の実名報道に関しては、「人権」を持ち出して論じるかたが多いのですが、それは無意味な議論です。人権は加害者、被害者、両者の家族、みんなにあるわけで、立場が異なる全員の人権に配慮してみんなが納得する結論なんて出るわけない。
 現実主義者の私にとって、評価軸はひとつだけ。実際に効果があるのか、ないのか。
 さまざまな統計や史料から判断すると、戦前戦後を通じて、実名報道は少年凶悪犯罪の抑止にまったくといっていいほど無力です。マスコミと善良な市民の自己満足にすぎないのです。なのに、『週刊新潮』は実名報道に効果があるかのように主張し、自分たちの報道を正義だとうたってます。
 私が批判するのは、まさにそこ。実際には効果がないのにあると主張して善や正義を気取るのは、それこそ『週刊新潮』が叩き続けてきた「偽善」そのものなのですよ。
     *
 誤解しないでいただきたいのですが、私は実名報道をやめろとはいってません。ただ、いまのやりかたでは結果的に偽善でしかないので、忠告したまでです。
 批判だけでなく建設的・具体的な提案もするのが私の流儀。そこで実名報道を偽善でなくする方法をお教えしましょう。
 今後も少年犯罪を実名報道するのなら、過去の少年犯罪についても、犯人の実名をすべて調べて報じてください。
 いま行われている少年実名報道には、もうひとつ重大な欠陥があります。それは基準があいまいで不公平なところです。実名か匿名か、事件の凶悪さの度合いで決めている現状は、基準があいまいすぎて納得できません。
 仮に、今後殺人にかぎって未成年犯も実名報道をする、と決めたとしましょう。それでもまだ不公平感は解消されません。
 今後殺人を犯した少年は実名報道という社会的制裁を受けた上に、従来と同じ刑罰も受けることになります。しかし、過去の少年犯罪者――戦後、殺人の罪を犯した累計およそ一万二千人の元少年は、刑罰は受けたけど実名報道による社会的制裁は受けてません。
 いまの犯罪少年には従来よりキツい罰を与えておいて、過去の犯罪少年は軽い罰で許すのですか? そんな偏った正義でごまかすのは偽善です。
 元少年たちはすでに罪をつぐなったじゃないか? 冗談をいってはいけません。殺された一万二千人の被害者とその遺族の気持ちを汲んでください。彼らは加害者の罪を許したのでしょうか? 
 少年法の改正や実名報道を望む人たちはなんといってますか。『新潮45』五月号の石井昂さん(新潮社常務取締役)も「故意に「人を殺す」のは取り返しのつかない犯罪なのだ」とおっしゃってます。
 そう。取り返しがつかないのです。取り返しがつかないというのは、罪が永遠に消えないことを意味します。罪が消えたら取り返しがついちゃったことになりますから。
 ということは、事件から何十年経っても犯人を許せずにいる遺族は、少なからず存在するのでは。
 実名報道に正義があるのなら、いまだに罪を許せずにいる被害者遺族のためにも、過去の少年殺人犯の実名を公表すべきではありませんか。
 もしもいま、一万二千人の元少年殺人犯の実名が公表されたら、各地で波風が立つでしょうね。少年時代の罪を隠して社会復帰し、社会的地位を築いている人もいるはずです。昭和三〇年代に少年だった殺人犯は現在七〇代。こどもや孫と平穏無事に暮らしているかもしれません。
 そんな人たちの過去の罪が実名報道されれば、周囲の見る目も変わります。
「やだ、あのおじいさん、中学生のとき人を殺してたんだって!」
「人は見かけによらないわねぇ……」
 彼らのこどもや孫も、殺人者の子孫というレッテルを貼られるかもしれません。
 私の提案は悪趣味ですか? でも、これこそが実名報道の目的ではないのですか。実名を記録に残し、だれもが確認できるようにすることで、犯罪者とその子孫が生涯にわたって不利益を被る可能性を残す社会的制裁。
 『週刊新潮』は、この罰をいまの少年犯罪者に対して科しているんです。六〇年後に『週刊新潮』のバックナンバーを読む人は、老人になった元少年の真の姿を知ることができ、過去の罪を糾弾することができるのです。
 だったら、それを過去の少年犯罪者に適用してもなんら問題はないはずです。ていうか、それをやらなければ公平な報道にならず、「正義」を実現できません。
 さあ、みなさんは、偽善と悪趣味、どちらの社会正義を望みますか。