二ビル通信

えげつない問題を勝手気ままに取り上げるブログ


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捏造された伝統、自民党保守派は売国奴Part2


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三輪宮司よくぞ言ってくれました。伝統的神道の者として今日お神酒をあげましたが(神道では毎月1日と15日、家で祭る神棚の榊を変えお墓参りにいく)。
天照さんと土地神(八百万の神)と祖父母や父母などご先祖を祭る。伝統的神道は自然万物に神が宿る、自分は大自然大宇宙に生かされているという考えがメイン。たしかに今の神社本庁はおかしい。明治維新の大神社解体から国家神道という新興宗教をはじめて、太平洋戦争の敗戦で国家神道はおわったはずなのに、また全体主義に戻そうとしている。
国家神道なんて政治の小道具にすぎない。あんなもん本来の神道哲学からして邪道。
土地や血に宿る神秘性を愛するのが本来の姿であって、時の権力や政府に盲目的に追従せよという日本会議的な思想は神道とは相容れない。

ただの成り済まし宗教カルト。それも朝鮮カルト。山口の神社の宮司はいつの間にか乗っ取られ係争中に不審死した。
その神社の敷地は原発建設予定地。
明治に遡っても靖国神社
長州の小さな神社だったんだろ。

朝鮮田布施ムラ出身者たちがそれを軍国主義に利用した。それが真相だろう。
昭和天皇靖国参拝を止めたのはA級戦犯合祀ではなく逆賊長州への反感からだろう。

神道はもともと日本人民衆の素朴な信仰だ。祀られているものはそれこそそれこそ森羅万象、民衆が素朴に恐れ畏れ敬い愛するものだ。だから地域地域に氏神がいて民衆から愛されてきた。
それを明治維新の際国家が取り上げて自分たち利権官僚国家のイデオロギーとしやがって、敗戦で氏神たちがやっと帰ってきたかと思ったら、神社本庁がいつの間にかちゃっかり乗っ取って再び戦前ファシズム復帰の手段にしようとしている。

氏神を、民衆の神々を、神社本庁とそこに巣食うファシズトどものてから奪い返そう。

それは簡単だ。あなたも今日から以下の2項目を実行しよう。

1. 神社本庁が共生する「二拝二拍手一拝」には従わない。自分の好きなやり方でお参りする。

2. 賽銭もおみくじもお守りも、神社には一切金を払わない。どうせ金は神様に行かない。神様はそもそも民衆から金など望まない。金は神社本庁の戦前復帰政治運動に悪用されるだけだ。

神社で賽銭も上げず「二拝二拍手一拝」もしない人がいたらそれは同志だ。ニヤッと笑って挨拶を交わそう。

日本のどこかの神社でそんなあなたと会うのを楽しみにしている。

日本会議神社本庁のいう伝統は伝統じゃない
全くその通りです。社会における本物とは根底に人間があるものをいいます。人間のないものは似非です。社会は人類が人間として生きる場です。だから社会の要請によって生まれたものには人間性がなくてはなりません。統治システムも政治も経済も文化も伝統も宗教も根底に人間のないものは似非です。日本会議とは似非右翼と似非宗教(カルト)の集団です。だから彼らのいう伝統は似非伝統にならざるをえません。「皇室と国民の強い絆」が「伝統」だと主張するのは壁(システム=権力)が欲しいからです。国旗や国を愛するふりをするのも壁の側に立ち人間を支配するための道具にしたいがためです。アメリカのケツ舐めにうつつを抜かすのも、ユダヤ選民主義やNWOとつるむのも同じことです。人間は社会的行動規範の根底に隣人愛を受け入れた人なので、人間性に反しない限りそれぞれの個性を尊重します。自己愛という子供の精神構造から成長できなかった人たちは自分を基点として判断することしかできないので、違う考えや行動をとる他者を許容できません。だから考えが同じで役に立つお友達同士はとても仲が良いのですが、違う人には過剰な敵愾心を抱きます。考えの違う相手の個を認めて友好的に付き合うということができないので居心地の良い環境を確保するためには排除するしかありません。そのためあらゆる権謀術数を企てますがなんといっても一番効果的なのは壁(権力)を私物化することです。安倍内閣によって権力は手に入れたのですがいまだ私物化には至っていません。立憲主義を破壊し、憲法を踏みにじり戦争のできる国にするために汗びっしょりになってうごめいていますが、激しい市民の抵抗にあって苦戦を強いられています。市民が掲げる「安倍政治を許さない」の安倍政治とはなんでしょう。個々の政策や滑舌の悪さに怒っていることもあるでしょうが、人間のない政治、似非政治に対する気持ちの悪さが粘り強い行動のエネルギーになっているのではないでしょうか。最近ではオーンゴールも多発するようになりました。もうすぐお腹が痛くなる頃でしょう。

http://hiyoshikami.jp/hiyoshiblog/
日吉神社宮司さんのブログ拾って来たよ。
すげー気に入った。面白い。 御目通し願いたし。
ただボリュームが物凄い処持って来て然もえらい濃いので
各位事前にトイレと食事を済ませ、ビールとつまみを不足無く用意した上で
肝を据えて読破しに行って下されませ


…… 政治権力と民俗的なものとの対抗というこの構図には、すでに近世中後期以降の長い由来があった。祭礼と若者組の制限や禁止、強制的な勧化の禁止、流行神や淫祠の禁圧、博奕・芝居・踊の禁制などは、幕府や藩の法令のなかにしばしば見出すことができる。しかし、こうした禁制は、一時的にはともかく、幕藩制の動揺と解体の過程ではけっして有効ではなく、むしろこうした民俗的な様式を通して民衆の欲求とエネルギーとが社会の表相へ表出されていったのである。
ところが、廃藩置県をおえて集権国家としての体制をととのえた明治政府は、こうした民俗的なものへの抑圧をいっきょに強めていった。教部省と大教院による教化政策も、よりひろい視点からみれば、この開明的専制主義の一環であり、神仏各派は、その大合唱に加わることで、みずからの存在意義を政府に認めさせようとした。また、民俗的なものに対立するという点では、ようやく数を増してきた開明的な新聞・雑誌類もおなじ立場にあり、反政府的な新聞の方が、民俗的なものへの対抗意識がいっそう強烈でさえあった。

民俗的なものへのこうした抑圧策は、全国的にみれば、六十六部の禁止(四年十月)、普化宗の廃止(同上)、修験宗の廃止(五年九月)、僧侶の托鉢禁止(同十一月)、梓巫・市子・憑祈?・狐下げなどの禁止(六年一月)、祈?・禁厭をもって医薬を妨ぐる者の取締り(七年六月)などが重要な画期であり、これらの禁令は、それぞれの地域で、地方官の啓蒙的改革への情熱にもとづいて実施されていった。

そして、これらの伝統的な宗教活動の禁止は、産穢をきらわないとか、女人結界を廃止するとか、僧侶にも妻帯・蓄髪を許すとかいう、それ自体としては開明と啓蒙の政策ともあい補うものであり、また裸体・肌ぬぎ・男女混浴・春画・刺青などの禁止とも結びついていた。素人相撲・門付の芸人・万歳なども、あるいは禁じられ、あるいは改められた。民俗的なものは、全体として猥雑な旧習に属し、信仰的なものはその中心的な構成要素であった。

民俗信仰が猥雑な旧慣のなかに一括されて、啓蒙主義的な確信にもとづく抑圧策の前では、ひたすらに否定的にしか意味づけられないものであったということは、ここでとりあげている分割線の設定にかかわって、もっとも留意すべき点である。というのは、この枠付けによって、民俗信仰の抑圧は、強権的なものとしてよりも、はるかに権威づけられた啓蒙や進取のプラスの価値として、人々に迫ることになるからである。

一方に猥雑と懶惰と浪費と迷信があり、他方に良俗と勤労と文明と合理性があるというとき、誰も前者に積極的な意味をあたえて、これを後者に対決すべきものとしてつきつけることはできない。こうして民俗信仰の世界は、意味や価値としての自立性をあらかじめ奪われた否定的な次元として、明治政府の開化政策にむきあってしまう。政府の開化主義的な抑圧政策にたいして、不安・不満・恐怖などが不可避的に生まれても、しかしそれは、筋道たてて意味づけられて表わされることのできない鬱屈した意識(むしろ自己抑圧された下意識)として、漠然と存在するほかない。そして、そのためにまた、権力の抑圧性とそれにたいする不満や不安なども、時間の経過のうちにしだいに意識下の次元に葬られ、開明的諸政策とその諸理念が曖昧に受容されてしまうのであった。

本文 実際、神社本庁は「伝統」の御旗のもと、機関誌「神社新報」で新たな憲法を制定して軍の「統帥権」を天皇に帰属させるべきだという主張すらしている。これは大日本帝国憲法で明文化されていた、すなわちどう考えても「近代的」なシロモノ。
太平洋戦争時、大本営発表で玉砕を伝える際に必ず流されたという『海ゆかば』も「「近代的」なシロモノ」です。
歌詞は万葉集から取られていますが、曲はワーグナーを連想させるドイツロマン派的曲想ですから。
ワーグナーの音楽と言えば、ナチスドイツがアーリア人至上主義を謳って、ドイツ人煽動に利用したことでも有名です。)
実際、作曲者の信時潔は、西洋音楽を学んでドイツに留学しています。
(右翼的)日本人を高揚させる感じで、それなりに名曲かとは思いますが、日本の伝統音楽とは言えません。

結局、国家神道とは、近代的なイメージ戦略であり、大日本帝国の広告宣伝活動(プロパガンダ)に過ぎないように思います。
(神様とは何の関係もない)
しかし、宗教の仮面を被って大日本帝国憲法に影響を及ぼし、軍部の暴走を許し、悲惨な戦争を正当化していく力となりました。
安倍の「美しい日本」もイメージ戦略であり、麻生の「ナチスに学べ」も、このような広告宣伝活動が念頭にあるのでしょう。


このような「天皇親政観」を植え付けた原因は、古事記日本書紀を編んだ者等にその原因がある。もっと深く言えば、力に頼る人間の愚かさ、驕りにその原因があろう。
武帝は、蘇我氏等がなした傀儡王朝を憎み、敢えて一切の臣を置かない親政をなしたふしがある。
問題は、その天武朝の親政を、朝鮮系帰化人や漢籍に通じた者らが、当然の事として彼らの価値観のもとで賛美の目で捉え、それを描いた事だ。
記紀通奏低音として響く、侵略史観、「易性革命」的な強さを善しとする性向は、本来の日本人のそれではない。
困った事に、歴代の天皇の一部は、そうした大陸的性向に憧れ、皇祖が戒める驕りのままに生きたところがある。その責めはその皇祖の恩恵に預かる国民に及ぶということを知らぬままに、だ。


神社は元々天皇や皇后を祀ったもの、武士を祀ったもの、土着神を祀ったもの、など多種多様だから神話に合わせて組織を組み替えるという行為自体に無理がある(というか日本人の元々の自然な信仰心に反する行為となる)。江戸時代以前の外国との戦争で祈願に使われていた神社は靖国神社ではなく福岡市の筥崎宮だったようだが極右メディアの動画コンテンツなどを見ていても論客がそのことを指摘することは殆どない。いい加減な洗脳で国民を動かそうとするのはそろそろ止めにして欲しいもの。

日本は本来八百万の神を信じてきた土地柄で、神道は自然信仰に根ざす。
これは琉球神道アイヌ神道とも根っこで共通する。
その緩さが良い所である。
しかし国家神道全体主義権威主義でガチガチに固めようとする方向にある。
よって神道が忌避する穢れである事象を、促進する方向で思考する。
これは神道に対する背信的行為に他ならない。

例えば自然信仰である神道が、原発の敷地にする為に神社の土地を譲渡するなど有り得ないことだ。
山口県神社庁祝島の神社の土地を、中国電力の上関原発建設の為に譲渡、その過程で宮司を解雇した。
土地の人はこれに猛反発。
こんなことが許される訳がない。


サミットの舞台になったのでこのところ伊勢神宮のことがテレビでしばしば取り上げられたようだが、皇祖を祀っているので神社の中でも最も神聖な神社というようなことばかりが強調される。しかし長い歴史を持つ伊勢信仰は明治になって一変していることにはなぜか触れられない。
お蔭参り、抜け参り、「ええじゃないか」といえば日本史の授業で習ったのを思い出す人もあるだろうか。通常は厳しい手続きが必要だった江戸時代の庶民の旅行は、伊勢参りに限っては簡単にその許可が下りた。そのため多くの庶民が講を作って伊勢に参拝した。当時のこうした参拝旅行は単に信仰の旅というよりも物見遊山の娯楽の旅でもあった。特に男性陣のお目当ては各宿場にいる飯盛女を抱いたり、目的地の伊勢の内宮と外宮の間にあった古市遊郭で遊ぶことだった。今の感覚では考え難いことだが当時は神社仏閣の門前や、ときには境内に遊郭があるのは珍しいことではなかったという。とくに伊勢古市の遊郭は最盛期には七十軒の妓楼に千人を越す遊女がいた一大遊郭だったという。

古市の遊女はプライドが高く、近隣のさほど貧しくもない家からも志願者が出るほどだったとかで、裕福な家の息子が親に言われて彼女たちに初体験をさせてもらい、その証明にもらって来た手紙なども残っているそうだ。こうしたことから古代、世界各地に存在した神娼(神殿娼婦)の系譜を引くという説もある。

ともあれ、幕末には商店の丁稚小僧や女中たちが主人にも言わず、子供達までが親にも言わずに家を出て、柄杓一つを手に持って「ええじゃないか、ええじゃないか」と叫びながら沿道の家々に物乞いをしつつ集団で伊勢を目指すという「ヒッピームーブメント」のようなことも全国規模で何度か起こっている。そのため当時の庶民の六人に一人は伊勢参拝の経験を持ったと言われているほどだ。それが明治になると国家神道の中心地と祭り上げられ、その神聖性ばかりが強調されるようになり、各地から参拝逆を集めてきた御師の制度も廃止され、参拝客は激減して遊郭も衰退した。

実は私の曾々祖母は古市の遊女だった人だ。明治の初め、参拝に来た曾々祖父と馴染みになり、年季が明けるのを待たずに、遠い道のりを男の後を追い、一緒になったという。
考えてみれば私はまだ曾々祖母ゆかりの地にまだ行ってはいない。いつか訪ねてみようと思っている。

あまてらすって古くからの神様じゃなかったんだね。グノーシスの太陽神のことなの?
だったら、もう参拝するのやめよーっと。

いま日本人として直視を避けられないこと
日本人が日本の『朝廷』を果たしてどこまで知っているかと言うことだ。
律令制度と百済仏教神道と藤原血族支配と天皇制と明治維新と18c世界権力フリーメーソン革命連続没発の関係と日本国の歴史に関して正しく物をいえるものがいるかどうか?天皇制無批判万歳の態度に落とし穴はないか?これら全てが現状の最悪危機の解決に結びついているのだ。
勲章にはどんな意味が?
位階の意味とは何か?
日本の都市の中心地になぜ藤原血族御用宗教施設があるのか?
ああ、勿論日本歴史と一体だろう。そういう危機レベルだと言うことだ。客観視すると。途方もない大事だ。

マッカーサーの日本人13才説にはこの自国〝お上権威〟無批判態度のことを言っているのだ。

13才の批判精神共有の井の中の蛙百姓価値観共有枠からき、少なくとも抜けだそう。

仏教神道の一元管理者が藤原血族と言うことをまったく知らずに、よくやれるよな~ ということだし、実際そうなんだし、征夷大将軍の称号は天皇背後の実質権力者の藤原潜主血族等が最高決定権を持つ仕組みの藤原血族御用宗教1300年間完全支配の日本という視点が欠落。きりしたん大名の狙いはこの藤原血族一元支配の藤原御用宗教にもあった。しかし、つるんだ相手がカトリック権力内部フリーメーソン機関の最悪謀略組織イエズス会では、話にならん。今日キリスト教会も殆ど悪魔教の前に陥落。しかし、いつでも自分でやろうという人間には、浅はかなキリスト教会教師達を気にせず、終末の危機に際して聖書の道を見いだし得る。今日の欧米の悪魔強制力抵抗のネットの有力情報の殆どの出所はキリスト教徒だ。アジアからは殆どでないのはキリスト教の歴史の浅さと、その中のまともなキリスト教徒のでる割合の低さによる。