二ビル通信

えげつない問題を勝手気ままに取り上げるブログ


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発達障害者の偉人、江戸時代障害者の地位は高かった


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発達障害天才説 ピアニスト グレン・グールドの場合』
発達障害天才説は誤解を生む場合が多いので好きではないが、それでも発達障害ゆえのユニークさで、世界を引っ張り、人類を新たなステージへ導いてくれる人がいることに、発達障害への価値を感じることも事実。

僕にとってはなによりもグレン・グールドだ。僕が発達障害の団体などでお話させていただくときは、かならずといってもいいほどグレン・グールドの話をする。

グールドはカナダのピアニスト(クラシック)。1932年に生まれ、1982年に50才で亡くなった。なので今年2012年はグレン・グールド生誕80年で没後30年にあたる。彼は生前に発達障害と診断されることはなかったが、英文のWikipediaにもあるように自閉症スペクトラムではないかといわれている。米国の公共ラジオNPRでもアスペルガーの可能性について取り上げられている。


晩年のグールド (Wikipediaより)

グレン・グールドはとにかく異才として知られている。1955年、レコード会社の大反対を押し切って、当時はまったくもって知られていなかったバッハのゴールドベルク変奏曲でデビュー。一躍時代の寵児になった。西側の演奏者として初めてソ連で演奏。しかし突然、コンサートはレコードで求められている物を繰り返すだけ、という理由でレコーディングのみの活動へ。そして数々の、僕に言わせれば人類の歴史に残すべき作品を録音し続けた。

グールドは日本で結構人気があるほか、もちろん世界的にも人気がある。確証はないが、映画「羊たちの沈黙」で使われていたらしいし、日本でもキムタクのテレビドラマ?で使われて、一時期ちょっとしたブームになったという。

グールドが発達障害っぽいところは、、、演奏面だけでも数限りないエピソードがあり、僕がさっと思い出せるものだけでも、、、
椅子はギーギーいう同じ椅子をずっと使い他の椅子では演奏ができない。
演奏しながら声(ハミング)がつい出てしまい、また演奏していない手で指揮をしてしまうのだが、その癖が生涯やめられない。
演奏の速度も極端に早いか極端に遅いかしかできないと揶揄されるほど極端だがそれを意に介さない。(※バーンスタインの指揮でベートーベン(訂正:記憶違い。。。ブラームスでした・・・)のピアノ協奏曲を演奏したときには、あまりにもゆっくりした速度を主張するグレン・グールドバーンスタインが音をあげて、コンサート前に「これから演奏する曲のテンポは私は賛成していないが・・・」と異例の前置きをせざるを得なかったほどグールドは主張を譲らなかった)
演奏旅行の際にピアノは通常現地で調達するのだが、どうしてもこだわりのピアノがあり、ピアノを一度ばらして船旅をしたので結局うまく組み上がらず変な音だったが本人はご満悦。
バッハや現代音楽(20世紀以降のシェーンベルクなどの音楽)など理論で組み上がっている曲を好むが、シューマンショパン、リスト、メンデルスゾーンといったロマン派(いわゆる気持ちのやり取りをメインにする19世紀の主流派)やドビュッシーに代表されるフランスの印象派っぽい音楽は一切演奏しなかったり。。。
などがある。


演奏だけでなく、私生活でもなかなかなものだった。
夏でも(感覚過敏だからか)マフラー、手袋、コートを着用し、人と握手しない (※上のビデオを見るとよく分かる。夏の暑いニューヨークでも、真冬のようなフル装備)
真夜中(2~3時)に突然知り合いに電話をかけ数時間も一方的に自分にしか興味のないことをしゃべり続ける
機械的に体調を管理するために数十の薬や栄養剤を服用する
友人や恋人の影がなく、常に孤独

他にもグールドの奇行はあるのだが、そんなのはどうでもいいぐらい音楽はぶち抜けて素晴らしく、他を寄せ付けないほどの存在である。言動でうまくコミュニケーションが取れず、周りからは常に浮いていたのだけれども、音楽で世界中の人とコミュニケーションをとれている所が何よりも素晴らしい。

僕がグレン・グールドを知ったのは18才ぐらいの時だったか。発達障害について知識もなく、自分の子供が生まれる前だったので、それが理由でグレン・グールドを好きになったわけではない。とにかく美しい世界観・心のなかを、言葉なんて人間がつくった不完全ではなくって、音というもっと普遍的な手段でダイレクトに表現してくれているところがなによりもすごい。冗談でなくグールドの音楽に心が響かない人は、生まれてきた意味を一つ失っていると思う。そのぐらい素晴らしい。下のビデオは、有名なゴールドベルク変奏曲の55年のデビュー盤と、死の直前に再度録音したバージョンから、アリア。


実は自分の子供が発達障害と診断された直後は、「自閉症というと、心がなかったり、心を閉じしたりするのか」と字義通りに誤解していた時期もあった。が、グールドが、言葉ではなく音楽で、発達障害の内面の繊細さや大胆さや美しさを届けてくれたおかげで、すごく救われ、息子の内面の豊かさについて信じられるようになった。グールドが演奏家の中で一番好きだったのは偶然なのか必然なのか分からないが、息子の診断をプラスに受け止められた要素としてとても大きい。

大学時代からほぼ毎日グールドの演奏は聞いている。15年聴き続けてもまったく飽きることがない。特にグールドのバッハの演奏は、ホコリにかぶっていたバッハを再発見したと言うか、バッハを蘇らせて彼が現代風に即興しているという新鮮さがある。

以前このブログで『自閉症天才説について』ではアインシュタインビル・ゲイツなど理系の人に触れたが、本当にどこの分野でも、発達障害の傾向が見られる人が人類を次のステージに進めている人がいることは確かだと思う。とはいえ、一つの心の安らぎに過ぎず、いま職に困っている発達障害の人たちにとっては実は直接的な解決策にはならない。偉人たちに敬意を称しつつ、愚直にKaienの事業を進化・深化させていかないと天才説では世の中の壁はこえられない。

なお興味を持たれた方は今(※執筆現在 2012年1月初旬)、グールドの映画が上映されている。『グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独』。これまでは、「ゲイだったのでは?」ということも言われたほどだったが、実は何人かの恋人がいたことがわかってきた。これまでほとんど語られなかったグールドの内面が知れるという。かなり評判のよい映画だったので見たかったが、ようやく日本に来てくれた。早速行こうと思う。


「障害者」か「少数派」か

それでは、自閉スペクトラム症は、「障害者」なのでしょうか、「少数者」なのでしょうか。

そもそも、近代まで、社会の中で、自閉症が問題になることはほとんどありませんでした。

たとえば、自閉症サヴァンな人たち -自閉症にみられるさまざまな現象に関する考察‐には、江戸時代の文献を調査すると、アスペルガー症候群らしき人が幾人も見つかるという例が挙げられています。そして、当時の風潮についてこう分析されています。

江戸時代には、精神遅滞自閉症の人は「障害者」として認知されていたのではなく、社会の一員として生活していたことが窺われる。

しかし彼らが、何らかの違和を醸し出していたであろうことは、予想できる。

ただ、江戸時代の人々は、その違和を奇として、珍しがり、驚き、愛でたのであった。(p13)
[※引用にあたり表外漢字は常用漢字に置き換えています]

江戸時代の人は、自閉症の人たちを「障害者」とはみなさず、変わった人として珍しがり、社会のユニークな一員として尊重していたようです。

同様に、21世紀に入った今日でも、一部の文化圏では、自閉症を「障害者」というより、もっと肯定的に捉えているところがあります。


江戸時代にも自閉症者がいた。しかし、その時代は自閉症者も包含しうる社会背景だった。
自閉症者の中核様態は「感覚過敏」や「感覚鈍磨」なのではないか。それらが逆に
 「限局的なこだわり」や「社会性の欠如」を生んでいるのではないか。


「[座頭]ざとう

 『座頭市』でお馴染みの座頭は、盲人の四官のひとつで、久我家を通して朝廷から買う位でございます。座頭は『彦市』や『政市』など『市』を付けた名を用いました」

「[座頭金]ざとうがね

 [座頭]は按摩、琵琶の他、金貸しもいたしました。座頭金は幕府が認めた特別に高い貸し金のことで、取り立てに嫌がらせをしたため、ずいぶんと嫌われました」


私は、江戸時代におけるこの[座頭]の存在の特殊性がどうしても気になる。
というのは、江戸時代は「お家大事」主義が士農工商の身分を越えて一貫していて、基本的には「血縁世襲」が展開していたのだが、盲目は世襲ではないから「お家大事」主義との折り合いがつかず、例外的に実力主義の<世間>になる。浮世絵師や落語家や文楽の人形師などの<世間>も実力主義だったが、それらが民間の自然発生的なものであるのに対して[座頭]は幕府が公認し管理したことが大きく違う。

ウィキペディアによると、

座頭(ざとう)は、江戸期における盲人の階級の一つ。
またこれより転じて按摩、鍼灸、琵琶法師などへの呼びかけとしても用いられた。
今日のような社会保障制度が整備されていなかった江戸時代、幕府は障がい者保護政策として職能組合「座」(一種のギルド)を基に障がい者に対し排他的かつ独占的職種を容認することで、障害者の経済的自立を図ろうとした、

とあるが、それは表向きの建前の話であって、何かもっと大きなダイナミズムが働いていたように直感する。

ウィキペディアは、さらに[座頭]の由来、「当道座」についてこう説明している。

元々は平曲を演奏する琵琶法師の称号として呼ばれた「検校(けんぎょう)」、「別当(べっとう)」、「勾当(こうとう)」、「座頭(ざとう)」に由来する。
古来、琵琶法師には盲目の人々が多かったが、『平家物語』を語る職業人として鎌倉時代頃から「当道座」と言われる団体を形作るようになり、それは権威としても互助組織としても、彼らの座(組合)として機能した。その中で定められていた集団規則によれば、彼らは検校、別当、勾当、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。これらの官位段階は、当道座に属し職分に励んで、申請して認められれば、一定の年月をおいて順次得ることができたが、大変に年月がかかり、一生かかっても検校まで進めないほどだった。金銀によって早期に官位を取得することもできた。

私が着目するのは、最後の「金銀によって早期に官位を取得することもできた」という実力主義の<世間>のあり方だ。
これが盲目者たちの<世間>の土壌として江戸時代以降も温存されたのではないか。

ウィキペディアは、

江戸時代に入ると当道座は盲人団体として幕府の公認と保護を受けるようになった。この頃には平曲は次第に下火になり、それに加え地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家としてや、鍼灸、按摩が当道座の主要な職分となった。結果としてこのような盲人保護政策が、江戸時代の音楽や鍼灸医学の発展の重要な要素になったと言える。また座頭相撲など見せ物に就く者たちもいたり、元禄頃から官位昇格費用の取得を容易にするために高利の金貸しが公認されたので、悪辣な金融業者となる者もいた。
当道に対する保護は、明治元年(1868年)に廃止されたという、

と締めくくっている。
明治になって士農工商身分制度が廃止され、四民平等となる。階級社会ではあったが、身分や家格を能力と努力しだいで乗り越えられる実力主義の<世間>が拡大した。むしろ、そのことが、それまで例外的に実力主義の<世間>であった盲目者たちの<世間>の例外性を解消させた、ということがあったのではなかろうか。

私は、盲目者の最高位「検校」について調べてみた。どんな「検校」がいたかということが、盲目者たちの実力主義の<世間>のあり方を具体的に示すと考えたのだ。

ウィキペディアの説明はこうだ。

江戸時代になると、国の座をまとめる総検校を最高位として京都に置き、江戸には関東の座の取り締まりをする総録検校を置いた。
検校は、専用の頭巾・衣類・杖などの所有が許された。盲官(盲人の役職)では、位階順に別当、勾当、座頭があった。

江戸時代に入ると、幕府は盲人が当道座に属することを奨励し、当道組織が整備され、寺社奉行の管轄下ではあるがかなり自治的な運営が行なわれた。

検校の権限は大きなものとなり、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。時代を当道座に入座して検校に至るまでには73の位階があり、検校には十老から一老まで十の位階があった。

当道の会計も書記以外はすべて視覚障害者によって行なわれたが、彼らの記憶と計算は確実で、一文の誤りもなかったという。また、視覚障害世襲とはほとんど関係ないため、平曲、三絃や鍼灸の業績が認められれば一定の期間をおいて検校まで73段に及ぶ盲官位が順次与えられた。しかしそのためには非常に長い年月を必要とするので、早期に取得するため金銀による盲官位の売買も公認されたために、当道座によって各盲官位が認定されるようになった。

すべての当道座員が音楽や鍼灸の才能を持つ訳ではないので、他の職業に就く者や、後述するような金融業を営む者もいた。最低位から順次位階を踏んで検校になるまでには総じて719両が必要であったという。江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった。

官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にするため、元禄頃から幕府により高利の金貸しが認められていた。これを座頭金または官金と呼んだが、特に幕臣の中でも禄の薄い御家人や小身の旗本等に金を貸し付けて、暴利を得ていた検校もおり、安永年間には名古屋検校が十万数千両、鳥山検校が一万五千両等、多額の蓄財をなした検校も相当おり、吉原での豪遊等で世間を脅かせた。同七年にはこれら八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受けた。


ウィキペディアが挙げる芸能と金貸し以外の有名検校は以下。

塙検校(保己一) -18?19世紀学者として活躍し『和学講談所』を設立。「群書類従」「続群書類従」の編者
米山検校(男谷検校)(銀一) - 勝海舟、男谷信友の曽祖父。男谷検校とも
石田検校 - 将棋の戦法のひとつである石田流三間飛車の創始者
石本検校 - 天野宗歩に平手で勝ちをおさめたことのある将棋の強豪


私は、以下の要素が大きな経済ダイナミズムとして働いたのだと考える。

①幕府による保護政策によって盲目者が金銭収入を安定して得る職能をもてたこと(建前)
②幕府によって武家に対する高利貸しが公認されたこと
 (本音:幕府は盲目者に金を稼がせ武家に貸させた、盲目者は稼いだ金を運用保全できた)
③お金で官位を買って利権を拡張できたこと
 (建前:幕府も盲目者も官位売買によって実力主義を維持および発揮できた
  本音:幕府は盲目者が世襲ではないため資本蓄積を図れない一代限りをカバーして、
     官位売買は小額貸し付け能力目者を早期に多額貸し付け能力者に速成できたと同時に、
     多額貸し付け能力者になろうとする盲目者は頑張り甲斐ありと大いに動機づけられた)

今風に言えば、[札差]が銀行で、[座頭]が闇金みたいな位置づけで、ともに幕府が認可した有資格者だったと理解できる。
[札差]が旗本・御家人の俸禄たる蔵米からみの表舞台の経済、[座頭]が全国幕藩の武士だけでなく士農工商をすべて相手にする裏方の経済、地下経済も含まれよう、そんな対照がある。
ところが一代限りの盲目者でも巨万の富を築いて[札差]並みに「吉原での豪遊等で世間を脅かせた」なんて事態になって、裏方ではなくなってしまった。

盲人についての記載において、江戸中期に「めくら」に代わって「座頭」「瞽女(こせ)」という言葉が一般的に用いられるようになった。
座頭仲間あるいは瞽女仲間に入った盲人を意味するのが通例であり、人別帳記載方法の変化は仲間入りしたものと然らざるものとが区別され、後者は記載されることなく姿を消し、前者の座頭・瞽女のみが帳面に記載され、特殊な取り扱いを受けるようになったことを示す。
一般村民とは別個に座頭人数・瞽女人数が提出される。


寺社奉行の主な任務は全国の社寺や僧職・神職の統制(筆者注:これに人別帳の更新の徹底が含まれる)だが、門前町民や寺社領民、修験者や陰陽師らの民間宗教者、さらに連歌師などの芸能民らも管轄した。
当時の庶民の戸籍は寺社が全て管理していた為、結婚と離婚(今日でいう戸籍に関する訴訟や審判)の管理という点については、現在の法務省が担う行政も担当していた役職である。
つまり、寺社奉行は、定住民の誕生から死亡まで、定住地の転出・転入を把握すると同時に、定住地を持たない移動民の動向も把握していた。
そして、多くが芸能民や按摩などの技能者であった「座頭」「瞽女(こせ)」も把握していて、「座頭」の一部が高利貸しになることを公認して官位を売買をさせることでその全体を管理した。