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二ビル通信

えげつない問題を勝手気ままに取り上げるブログ


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やはり江戸時代は貧しかった特集Part3


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【不衛生な都】糞まみれなのは日本の方だった【韓国のこと言えないネトウヨ
1 :日出づる処の名無し:2012/03/04(日) 18:41:34.66 ID:4Jf660W+
昔の都は不衛生だった? 平安京コガネムシ特定印刷用画面を開く

京都と三重のアマチュアの昆虫研究者が、京都市内の平安京の遺跡から出土したコガネムシの種類を調べている。
これまでに7種類を突き止め、専門誌に発表した。現在は京都にほとんど生息していない種類も含まれており、小さな虫から当時の都の環境がうかがえるという。

 全国の研究者や愛好家でつくる「コガネムシ研究会」(東京都)会員の塚本珪一さん(81)=左京区=と稲垣政志さん(56)=三重県
平安京右京三条三坊(現在の中京区・島津製作所の辺り)で市埋蔵文化財研究所が1979~85年に行った発掘調査で、
9~10世紀の溝や井戸から出土した甲虫の頭部や羽の遺物273点を現在の標本と比較した。

 コガネムシ類はいずれも体長1センチに満たない上、バラバラの状態で出土したが、顕微鏡で標本類と根気よく突き合わせた。
最終的に7種類を特定し、昨年に研究会の機関誌に発表した。

 塚本さんと稲垣さんによると、特定できた種類のうち「マルエンマコガネ」は現在、本州ではあまり見つからない。
また「ナガスネエンマコガネ」も、近畿では奈良公園奈良市)以外にはほとんど生息していない。いずれも人の排せつ物や動物のふん、死骸を餌にしており、平安京はこうした餌が豊富にある不衛生な環境だったと推測できるという。

 平安京跡ではほかにもコガネムシ類が出土しており、2人は「昆虫の遺物から当時の環境が推測できるのが面白い。
機会があれば、またやってみたい」と意欲をみせている。


 『宇治拾遺物語』には平安京四条北の小路が糞まみれであったために「糞小路」と呼ばれたと書いてある。それではあまりに直接的すぎると、鳥羽天皇は「錦小路」にあらためさせたそうだ。色が同じだからである。京の都の一般庶民は、糞小路のようなある程度定められた場所で用をたしていたようだ。これが現在の京都市民の胃袋、錦小路の源である。フランスはパリも同じような事情でパリの街のあちこちに糞小路が出現、汚物はドブ川となり、街中のいたるところをながれ、こんな事情が、お城もベルサイユに逃げ出したものと考えられている。

エジプトは言うに及ばずトルコなんかのBC1000~3000年代の遺跡でもトイレの遺構が良く見かけられる。これらは世界最初の水洗トイレの一つに違いないが、その造り等より勘案して社交的空間であり、読書に励んだり、いろいろ世間話をする場であったに違いない。ケガレ等との思想とはあまり結びつかない。トルコの地下都市には現在の都市型トイレの原型を示すトイレが見られるが、これらは勿論水洗ではなく、敵から隠れた生活を強いられる必要上作られたもので、単に一時的保管のみを意味している。でも立派に独立した小部屋造りとなっている。

【農耕化以降の糞尿観】
 稲作が普及した弥生時代から古墳時代にかけて日本は急激な人口増加を見た。増加した人口を養い、階級分化もできるほどの農業生産の飛躍的な増大は、戦禍の巷であった朝鮮半島からの渡来人によってもたらされたものである。開墾技術、鉄器といった中国伝来の技術は耕地造りに威力を発揮した。これらとともに伝わり、生産力増大に寄与したのが人糞肥である。人糞肥が作物の育成に魔術的なほどの力を発揮し、農業生産になくてはならないものになってくると、それまで水に流していた屎尿をどこかに溜め置く必要が出てくる。まったく公衆衛生上の立場からであり、ここに便所構造の変化が始まる。また、糞はケガレでありながら農作物を育てる魔術的な力を秘めたものとされていく。イザナミが最後に生んだ神は尿神ミズハノメと屎神ハニヤマヒメだったのである。このように、時代が下がりトイレは人糞肥の貯蔵に迫られ出来たもので、現在のように社会通念としてケガレモノ(キタナイ不潔なもの)や羞恥心の概念からきたものではけっしてなかった。

東南アジアのインド、タイあたりでは、昔からこれの手動式ウオッシュレットが愛用されている。暑い気候、事後の清涼感なにをとっても、理にかない、これほど素晴らしいモノはない。生活の知恵どこらろか、日本のメイカーも、これらの国からヒントを得たのであろうし、これらの国にパテント料を支払うべきだと思うがいかがなものでだろうか?

江戸時代、日本は貧しかった

1800年ごろの英国で、たとえば農業労働者はどういう暮らしをしていたか。
〈いったん雇われれば、年に300日は働き、休めるのは日曜とたまの休日だけだった。冬場は、日がのぼっている間はずっと働きづめだった。食事はパンに小さなチーズ、ベーコンの脂、薄い紅茶ぐらいで、成人男性ならそれにビールを追加した。きつい肉体労働のわりにはカロリーの少ない食事で、人々は空腹に悩まされることも多かったにちがいない。……調理用の燃料は高価だったため、暖かい食事はめったに食べられなかった。照明用のろうそくも高嶺の花で、労働者は日が落ちればたいてい床に入った。彼らの望みは、年1回は着る服を新調することだった。家族5、6人が2部屋だけの小さな家に住み、薪や石炭を燃やして暖をとっていた。食物や衣服、熱、光、住居など、彼らの消費したもののほとんどは、古代メソポタミアの住民にもなじみのあるものだったはずだ〉
衣食住の文化はちがうにせよ、日本人もまたつい150年くらい前までは、たしかにこういう暮らしをしていたのだ。古代メソポタミアと変わらないと言われても、そうかもしれないなと妙に納得してしまう。
それでも1800年の英国の労働者は、現在のマラウイの労働者にくらべて、はるかに豊かだというのだから、サハラ以南の国の貧しさには、目をおおいたくなるほどである。こうした分岐がおこったのは、しかし、近代になってからだと考えている。
狩猟採集社会がけっして貧しくなかったことは、たとえばタヒチ人の身長が高く、また食べ物も実にバラエティに富んでいたことをみてもわかる。その技術はヨーロッパ人より劣っていたかもしれないが、1800年ごろのロンドンの労働者が年300日以上、1日10時間以上働いていたのに対して、狩猟採集民は1日数時間しか働かなくても、そこそこのカロリーを摂取することができた。「自給自足社会で暮らす男性は、豊かな現代ヨーロッパの住民よりも、年間で1000時間も長い余暇をすごしている」というのだ。
〈中世の西欧では、ペストの流行が始まった1347年から、人口が増え始めた1550年にかけて、物質的生活水準は並はずれて高く、現代の最貧国の基準に照らしても豊かだといえるほどだった。ヨーロッパ人と接触する前のポリネシア人も、豊かな生活を送っていたと考えられる。これに対し、18?19世紀の中国やインド、日本はきわめて貧しかったようだ〉
人口と生活水準との相関関係は否定しがたいものがある。江戸時代の日本はほんとうに貧しかったのだ。


徳川家康は、他の戦国武将達と異なり、外国の学問や情報収集に熱心だったようです。朝鮮国の学者に朱子学を学び、そして、オランダ船リーフデ号で遭難したヤン・ヨーステン(日本名耶揚子・東京駅「八重洲」の語源)を顧問として迎え、江戸城近くに住まわせ、外国の情報を入手していたのです。
しかし、未だにその徳川家康の出自は謎です。林羅山(1583年~1657年・儒学者)の「駿府政治録」の慶長17年(1612年)の記述に、「御雑談の内、借年御幼少のとき、又右衛門某と云う者あり。銭五貫にて御所を売り奉るの時、九歳より十八、九歳に至るまで、駿府に御座の由、談られ給う。諸人伺候、衆皆これを聞く」、とあるのです。
この林羅山の、銭五貫で三河に売られてきたと言う、徳川家康の問わず語りについての、記述が正しければ、戦国時代の徳川家康(馬)と賎民達(猿)との関係が解明できるかもしれません。
教科書歴史は、徳川家康の出自から江戸時代初期までの事跡を正しく伝えていないようです。では、時の権力者は、江戸時代の歴史に一体何を隠しているのでしょうか。  


江戸時代の生活はとても質素でつつましいものでした


江戸時代の生活については、さまざまな史料が残されています。

各地の博物館や郷土資料館には江戸時代の衣装が展示されていますし、錦絵や浮世絵などにも当時のあでやかな生活ぶりが描かれていますので、そうしたものからある程度知ることができます。

しかし、残されている史料からわかるのは、あくまでも上流階級の生活であり、よそいきの服装やごちそうであることに注意すべきでしょう。

江戸時代の生活者の大半は庶民(町人)であり、決して豊かに暮らしていたわけではありません。

日常は、質素な衣類を身にまとい、貧しい食生活をしていたはずです。

しかし、そうした貧しい人々が使っていた物はあまり残っていませんので、各種の資料から想像するしかないのが実態です。


衣類はリサイクルが基本でした


江戸時代には大型の機械を使って衣類を製造する工場などありません。

身につける衣類はすべて機織り機などでつくった手作りのものです。

たくさん作ることはできませんので、当然ながら高価でした。

そのため、一般の庶民(町人)が新品の衣類を購入するということはほとんどありませんでした。

大名や豪商、名主階級などは豪華な新品の衣装を買っていたのでしょうけれど、普通の家庭では、古着屋で買うのが一般的だったようです。

古着をつぎはぎして大事に扱い、毎日同じものを着ていた場合が多かったようです。

すり切れて穴が開けば当て布をして補い、それを何度も繰りかえして着られなくなれば、赤ん坊のおしめや雑巾にし、それがすり減って糸くずだけになるほどまで使い切ったと考えられます。

それゆえ、こうした庶民の着ていた衣類は現物が残っていないのでしょう。

もちろん、庶民の衣服は派手な錦絵や浮世絵に描かれるわけではありませんので、わずかな資料から推測するしかありませんが、実態はとことんリサイクル、というスタイルだったようです。


食事はまことに質素でした


江戸時代の食生活について、多彩なものを食べていたとか、なかなかのグルメだったというようなことが言われることがありますが、それはあくまでも、お金持ちの人たちの食事ということです。

わが国には古くから素晴らしい食文化がありますし、和食は世界に誇れる世界遺産でもあります。

しかし、実際にそれを食していたのは一部の富裕層だったことは知っておくべきでしょう。

食卓に「おかず」が並ぶことは珍しく、下級武士の場合で魚を食べるのは月に数回程度でした。

朝ごはんはみそ汁だけ、昼は豆腐だけ、夜は油揚げだけというような食事が普通です。

貧しい農家の場合には、米を食べることはめったになく、いもや麦、ひえなどを主食にしていました。かなり貧しい食生活だったようです。



裏長屋暮らしが一般的でした


江戸時代の庶民は長屋暮らしが当たり前でした。長屋以外に暮らす人はほとんどいなかったと考えて良いでしょう。

長屋といっても、現代のアパートのようなものを想像してはいけません。隣の部屋とは薄い板張りの壁があるだけですので、防音などまったくありません。

隣家で食事をする音も、性生活をする音も筒抜けでした。

トイレは共同便所ですし、井戸や洗い場もみんなで一緒に使っていました。

夏には蚊が来襲し、すき間風を防げない建物では真冬は相当な寒さだったことでしょう。

現代であればいかに質素なアパートでも電化製品の恩恵を受けることができるので、当時と比べればだいぶ快適に暮らせるのではないでしょうか。

歌舞伎や能などの娯楽も、一般の町民にとってはぜいたくな行事です。

生涯に一度も見たことがないという人も少なくなかったことでしょう。

みじめで厳しい生活のようにも思われますが、それが「当たり前」になっている世界で暮らしていれば、それほどひどくは感じられなかったはずです。

現代人の暮らしも、100年後、200年後の未来人から見れば、ヒドイ暮らしぶりに見えるのかも知れません。