二ビル通信

えげつない問題を勝手気ままに取り上げるブログ


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オランダとの交易の場所が出島だったのはなんで?


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1641年(江戸時代)鎖国を完成させましたが、出島ではオランダとの交易を行っていました。なぜオランダとの交易の場所は出島だったのでしょうか?

ポルトガル船が入港すると,商人は上陸して民家に滞在し,そこを収引きの場とした。貿易風の関係で滞在は敷か月に及び,或いは年を越すことさえあった。このように市中に自由にいることにより、混血児が生まれたりするようになってもいた。
幕府は、1635(寛永12)年に日本人の海外渡航を禁止するとともに、ポルトガル人を隔離することを決め、翌年には、長崎の有力町人25人に資金を出させ岬突端の海中に人工島を造った。この扇型をした人工島こそが出島である 

・この隔離政策は,切支丹や風紀の取頼まりを容易にしたほか,貿易の実体が幕府の手中に完全に掌握されるという利点をもたらしたことは見逃がせない。

島原の乱をきっかけに幕府は、ここに切支丹の徹底的な禁制を決意し,1639(寛永16)年ポルトガル船の日本渡航を全面禁止するとともに,在留ポルトガル人やその混血児の国外追放を命じた。これにより、出島は完成3年目で空き屋となった。

ポルトガルの追放によって,長崎の港は唐船貿易のみとなって急激にすさみはじめた。また出島埋築工事を分担した25人の町人も,その出資金を償還する方法が断たれて困った。そこで長崎の官民を挙げて幕府に訴願した。

オランダの意向(航路や情報元)で出島を指定したということもありえますが、上記を繋ぐと幕府の意向で出島での交易となったと考えられます。