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晋書粛慎伝の訳文を読みたい人へ 【古代史】


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中華帝国の一つ晋王朝の歴史を記した史書「晋書」にある「粛慎伝」の日本語訳文を作りました。
原文と併記してますので、書記法を検証するのも面白いでしょう。

「晋」は三国を統一した中国の「古代帝国」です。
粛慎は満州民族の祖先で、日本書紀では「みしはせ」と呼んでます。
」は接頭辞ですが「しはせ」は、粛慎の「上古中国語音」を写した呼び方です。


 肅慎氏一名挹婁,在不咸山北,去夫餘可六十日行。東濱大海,西接寇漫汗國,北極弱水。其土界廣袤數千里,居深山窮谷,其路險阻,車馬不通。夏則巣居,冬則穴處。父子世為君長。無文墨,以言語為約。有馬不乘,但以為財産而已。無牛羊,多畜豬,食其肉,衣其皮,績毛以為布。有樹名雒常,若中國有聖帝代立,則其木生皮可衣。

 粛慎氏、一名に挹婁という。不咸山(ふかんざん)の北に在り、扶余から六十日の行程。東は大海(日本海)に沿い、西は寇漫汗(こうまんかん)国と接し、北は弱水(アムール河)に極まる。その領域は広大で数千里、深い山の渓谷に居住し、道は険阻で車馬では通れない。夏は樹上で暮らし、冬は穴にこもる。君長は父子の世襲とする。刺青(いれずみ)はない(海洋民族ではない)、言語で約束をする(文字がない)。馬はいるが騎乗はしない。ただ財産とするのみ。牛や羊はおらず多くの豚を畜産し、その肉を食べる。衣服は豚皮、毛(綿)を紡いで布とする。雒常(白樺)という名の樹木があり、もし中国に聖帝が代わって立てば(それを祝すため)、その木の樹皮(繊維状にして)で衣を作る。


 無井灶,作瓦鬲,受四五升以食。坐則箕踞,以足挾肉而啖之,得凍肉,坐其上令暖。土無鹽鐵,燒木作灰,灌取汁而食之。俗皆編髮,以布作襜,徑尺餘,以蔽前後。將嫁娶,男以毛羽插女頭,女和則持歸,然後致禮娉之。婦貞而女淫,貴壯而賤老,死者其日即葬之於野,交木作小槨,殺豬積其上,以為死者之糧。性凶悍,以無憂哀相尚。父母死,男子不哭泣,哭者謂之不壯。相盜竊,無多少皆殺之,故雖野處而不相犯。有石砮,皮骨之甲,檀弓三尺五寸,楛矢長尺有咫。其國東北有山出石,其利入鐵,將取之,必先祈神。

 井戸も釜戸もなく、甗(蒸し器)を作り、四、五升を蒸して食べる。坐るときは両脚を投げ出して座り、脚に肉を挟んで食べる。冷凍肉はその上に坐って暖める。大地には塩も鉄もなく、木を焼いて灰を作り、その灰汁(あく)を注いでこれを食す(鹿児島県にモチゴメを灰汁に浸して炊いた「灰汁巻き」という古代の保存食がある。それに類したものか?)。

 風俗は皆、髪を編み、布で丈の短い上着を作る、径は一尺余り、これで前後を覆う。嫁を娶るときは、男が毛羽を女性の頭に挿し、女性を連れて帰り、その後に婚礼で女性を美しく飾る。妻は貞淑だが女性は淫乱、若さを尊び、老い賤しむ。死者は即日、野に埋葬する。木組みの小さな槨(ひつぎ)を作り、豚を殺し、その上に積み、死者の糧となす。

 性は凶悍(かん)、悲哀の表情を顔に出さない。父母が死んでも男子は号泣しない、泣けば勇者ではないと言われる。互いに秘かに盗むが、これを殺すことは一切ない。野に暮らすといえど、互いを侵犯することはない。石砮、皮骨の鎧、檀弓は三尺五寸、楛矢(こし)は長さ一尺有寸。国の東北に鉱山があり、鉄鉱石を採掘し、必ず先に神に祈る。

 周武王時,獻其楛矢、石砮。逮於周公輔成王,復遣使入賀。爾後千餘年,雖秦漢之盛,莫之致也。及文帝作相,魏景元末,來貢楛矢、石砮、弓甲、貂皮之屬。魏帝詔歸於相府,賜其王傉雞、錦罽、綿帛。至武帝元康初,復來貢獻。元帝中興,又詣江左貢其石砮。至成帝時,通貢於石季龍,四年方達。季龍問之,答曰「毎候牛馬向西南眠者三年矣,是知有大國所在,故來」云。

 周の武王の時代、楛矢と石砮を献じる。周公が成王の補佐していた時代に再び遣使が朝賀に来た。その後一千余年、秦漢の隆盛時といえども来貢しなかった。

 三国魏の文帝が丞相となるに及び、景元5年(264年)、楛矢、石砮、弓甲、貂皮の類をもって来貢。魏帝は相府で詔をし、帰りには、その王の傉雞に、錦、毛織物、綿織物、絹織物を賜る。

 武帝の元康の初年(291年)、再び来貢して献納(『晋書』武帝紀は咸寧五年(279年)12月、粛慎が祝賀に来貢、楛矢や石鏃を献上した」とあり、翌年春、太康に改元されており、本文の元康初は太康初の誤記とされる)。

 東晋を建国した元帝の中興(319年)8月、また江東に詣でて石砮を貢献。

 成帝の時(326-342)、後趙の石季龍(石虎)に通貢。ちょうど四年目の通貢だった。季龍はこれに問うた、答えて曰く「毎候 牛馬は西南に向かって三年も眠りますが、その牛馬が大国の所在を知っているのです。(四年目に目を覚ました)それ故に来貢しました」という。


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