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三国志魏書穢伝の訳文を読みたい人へ 【古代史】

三国志で有名な魏王朝の歴史を記した史書三国志魏書」にある「穢伝」の日本語訳文を作りました。
他の中国古代史書の訳文も併記してますので、その違いを検証するのも面白いでしょう。

「魏」は、あのイケメンの曹丕様が建国した中国王朝です。
「穢(わい)」は朝鮮民族満州民族の祖先の一つです。
「倭(わ)」と発声が激似だから、倭人の祖先に当たる民族でもあるでしょう。


 濊南與辰韓、北與高句麗、沃沮接、東窮大海、今朝鮮之東皆其地也。戸二萬。昔箕子既適朝鮮、作八條之教以教之、無門戸之閉而民不為盜。其後四十餘世、朝鮮侯淮(準)、僭號稱王。陳勝等起、天下叛秦、燕、齊、趙民避地朝鮮數萬口。

 燕人衛滿,魋結夷服,復來王之。漢武帝伐滅朝鮮,分其地為四郡。自是之後,胡漢稍別。

 濊。南は辰韓、北は高句麗と沃沮に接し、東は大海(日本海)に尽き、今の朝鮮の東は皆、濊の土地である。戸数は二万。昔、箕子が朝鮮に行き着き、八條の教えを作り、これを教えたので、門戸を閉じずとも民衆は盗むことをしない。

 その後、四十余代の朝鮮侯準は王を僭称。陳勝(と呉広が反乱を)起したことで、天下は秦王朝に叛くと、燕・齊・趙の民は戦乱を避けて朝鮮の地に数万人も逃げ込んだ。


 燕人の衛満が魋(まげ)を結い、夷服を着て,何度も往来して、ここの王となる。漢の武帝が朝鮮を討滅。その地を四郡に分けた。これの後、胡と漢は少し別れた。

 自單單大山領以西屬樂浪,自領以東七縣,都尉主之,皆以濊為民。後省都尉,封其渠帥為侯,今不耐濊皆其種也。漢末更屬句麗。

 単々大山領(馬息嶺山脈)より以西は楽浪郡に属す、領(単々大山領)より以東の七県は都尉がこれを統べる、そこは皆、濊を以て民となす。後に都尉を省き、そこの渠師を諸侯として封じた、今の不耐濊侯は皆、その類である。漢末には高句麗に属した。


 無大君長、自漢已來、其官有侯邑君、三老、統主下戸。其耆老舊自謂與句麗同種。其人性愿愨、少嗜欲、有廉恥、不請哀。言語法俗大抵與句麗同、衣服有異。男女衣皆著曲領、男子撃銀花廣數寸以為飾。

 大君長はおらず、前漢以来、その官には侯邑君、三老があり、下戸(最下級の賎民)を支配している。そこの古老の話では、高句麗と同種だと自称している。

 族人の性質は素直で誠実、欲を好まず(無欲)、廉恥を知り、哀れみを請うことはない。言語風俗は高句麗に似るが、服装には違いがある。(寒冷地なので)男女は皆、曲領(襦袢=わたいれ)を着ており、男性は幅数寸の銀製の花を挿して飾っている。


 漢末更屬句麗。其俗重山川、山川各有部分、不得妄相渉入。同姓不婚。多忌諱、疾病死亡輒損棄舊宅、更作新居。有麻布、蠶桑作綿。曉候星宿、豫知年歳豐約。不以誅玉為寶。常用十月節祭天、晝夜飲酒歌舞、名之為舞天、又祭虎以為神。

 其邑落相侵犯、輒相罰責生口牛馬、名之為責禍。殺人者償死。少寇盜。

 漢末には高句麗に帰属した。その風俗は山川が重なり、山川には各部族がおり、みだりに干渉することはできない。同姓は婚姻できない。多くの忌諱があり、(家族が)疾病で死んだときは、すぐに旧宅を廃棄し、更(通典では夏)に新居を建てる。

 麻布があり、蚕糸で絹を作る。夜明けの星宿(二十八宿の占い)から、その歳の作物の豊穣を予想する。珠玉を宝としない。常用の十月の節句重陽節句。旧暦9月9日)に天を祭り、昼夜に酒を飲み、歌い踊る、これを舞天という。また虎を神として祭る。その邑落は互いに侵犯するが、刑罰として相手側に生口(せいこう=奴婢)と牛馬を差し出す、これを責禍という。人を殺した者は死をもって贖(あがな)う。強盗は少ない。


 作矛長三丈、或數人共持之、能歩戰。樂浪檀弓出其地。其海出班魚皮、土地饒文豹、又出果下馬、漢桓時獻之。

 矛は長さ三丈に作り、あるいは数人でこれを共同で持ち、歩兵戦で巧みに使う。

 楽浪檀弓は、その地から産出される。その海は斑な魚皮を産出、土地には鮮やかな文様の豹が多くいる。また果下(馬高三尺)の馬を産出し、漢の桓帝の時に、これを献納した。


 正始六年、樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以領東濊屬句麗、興師伐之、不耐侯等舉邑降。

 其八年、詣闕朝貢、詔更拜不耐濊王。居處雜在民間、四時詣郡朝謁。二郡有軍征賦調、供給役使、遇之如民。

 正始六年(245年)、楽浪郡太守劉茂と帯方郡太守弓遵は領東で高句麗に従属していた濊を討伐した。不耐侯らは邑(国)を挙げて降伏した。

 正始八年(247年)、王宮に詣でて朝貢、不耐濊王は再び詔を拝する。(王の)居所は百姓らと雑居である。四季ごとに郡に詣でて朝謁する。二郡(楽浪・帯方)に軍征が起れば賦調として使役を供し、これを遇するに臣民の如し。


後漢書

 濊北與高句驪、沃沮、南與辰韓接、東窮大海、西至樂浪。濊及沃沮、句驪、本皆朝鮮之地也。昔武王封箕子於朝鮮、箕子教以禮義田蠶、又制八條之教。其人終不相盜、無門戸之閉。婦人貞信。飲食以籩豆。

 濊、北は高句麗と沃沮、南は辰韓と接し、東は日本海に尽き、西は楽浪郡に到る。

 濊、沃沮、高句麗、元はいずれも朝鮮の領地である。昔、武王が箕子を朝鮮に封じる。箕子は礼儀や農耕を教え、また、八条の教えを制定した。そこの人々は互いに盗むことはなく、門戸を閉じることがない。婦女子は貞節で信用できる。飲食には膳を用いる。


 其後四十餘世、至朝鮮侯準、自稱王。漢初大亂、燕、齊、趙人往避地者數萬口、而燕人衛滿撃破準而自王朝鮮、傳國至孫右渠。元朔元年、濊君南閭等畔右渠、率二十八萬口詣遼東内屬、武帝以其地為蒼海郡、數年乃罷。

 その後、四十余代の朝鮮侯準は王を僭称。漢の初め大乱あり、燕・斉・趙の民は難を逃れて朝鮮の地に数万人も逃げ込んだ。そして、燕人の衛満は準を撃破して、自ら朝鮮王となり、伝国は孫の右渠に至る。

 元朔元年(紀元前128年)に至って、濊君南閭らが右渠に叛き、二十八万人を率いて遼東に詣でて内属し、武帝はその地に蒼海郡を設置したが数年で廃止した。


 至元封三年、滅朝鮮、分置樂浪、臨屯、玄菟、真番四部。

 至昭帝始元五年、罷臨屯、真番、以并樂浪、玄菟。玄菟復徙居句驪。自單單大領已東、沃沮、濊貊悉屬樂浪。後以境土廣遠、復分領東七縣、置樂浪東部都尉。自内屬已後、風俗稍薄、法禁亦浸多、至有六十餘條。

 建武六年、省都尉官、遂棄領東地、悉封其渠帥為縣侯、皆歳時朝賀。

 元封三年(紀元前108年)、朝鮮を滅ぼし、楽浪、臨屯、玄菟、真番の四部を分置した。  昭帝の始元五年(紀元前82年)、臨屯、真番を廃して、楽浪と玄菟に併合した。玄菟を高句麗の居する場所に遷した。単々大領より東は、沃沮、濊貊ことごとく楽浪に属した。後に土地の境界が広くて遠いので、再び領東七県に分け、楽浪に東部都尉を配置した。内属した後、風俗がやや薄れ、法令による禁止事項も多くが浸透し、六十余条にもなる。

 建武六年(紀元前30年)、都尉の官を省き、遂に領東の地を放棄し、ことごとくそこの渠帥(きょすい=部族長)を県侯となした。皆、歳時に朝賀に参内した。


『通典』辺防(東夷上の一節)

 濊亦朝鮮之地、南與辰韓、北與高句麗、沃沮接、東窮大海、西至樂浪、後漢光武建武六年、悉封其渠帥爲縣侯。皆歳時朝賀。無大君長。自漢以來、其官有侯、邑君、三老、統主下戸。其耆舊自謂與高麗同種、言語法俗大抵相類。其人性謹愿、少嗜慾、有廉恥。男女衣皆著曲領、男子繋銀花、廣數寸、以爲飾。其俗重山川、山川各有部分、不得輒相干渉。同姓不婚。多所忌諱。疾病死亡即棄舊宅、夏作新居。釦種麻、養蠶。作綿布。曉候星宿、先知年歳豊約。不以珠玉爲寶。又祭虎以爲神。其邑落有侵犯者、輒相罰、責生口牛馬、名之爲「貴禍」。少寇盗。作矛長三丈、或數人共持之、能歩戰。樂浪檀弓出其地、又多文豹。有果下馬、高三尺。乘之可於果樹下行也。其海出斑魚皮、漢時常獻之。魏齋王正始六年、不耐濊侯等舉邑降、四時詣樂浪、帯方二郡朝謁。並今東夷之地。有軍征賦調、如中華人焉。

(内容が前記二編と変わらないので訳は割愛)

晋書粛慎伝の訳文を読みたい人へ 【古代史】

中華帝国の一つ晋王朝の歴史を記した史書「晋書」にある「粛慎伝」の日本語訳文を作りました。
原文と併記してますので、書記法を検証するのも面白いでしょう。

「晋」は三国を統一した中国の「古代帝国」です。
粛慎は満州民族の祖先で、日本書紀では「みしはせ」と呼んでます。
」は接頭辞ですが「しはせ」は、粛慎の「上古中国語音」を写した呼び方です。


 肅慎氏一名挹婁,在不咸山北,去夫餘可六十日行。東濱大海,西接寇漫汗國,北極弱水。其土界廣袤數千里,居深山窮谷,其路險阻,車馬不通。夏則巣居,冬則穴處。父子世為君長。無文墨,以言語為約。有馬不乘,但以為財産而已。無牛羊,多畜豬,食其肉,衣其皮,績毛以為布。有樹名雒常,若中國有聖帝代立,則其木生皮可衣。

 粛慎氏、一名に挹婁という。不咸山(ふかんざん)の北に在り、扶余から六十日の行程。東は大海(日本海)に沿い、西は寇漫汗(こうまんかん)国と接し、北は弱水(アムール河)に極まる。その領域は広大で数千里、深い山の渓谷に居住し、道は険阻で車馬では通れない。夏は樹上で暮らし、冬は穴にこもる。君長は父子の世襲とする。刺青(いれずみ)はない(海洋民族ではない)、言語で約束をする(文字がない)。馬はいるが騎乗はしない。ただ財産とするのみ。牛や羊はおらず多くの豚を畜産し、その肉を食べる。衣服は豚皮、毛(綿)を紡いで布とする。雒常(白樺)という名の樹木があり、もし中国に聖帝が代わって立てば(それを祝すため)、その木の樹皮(繊維状にして)で衣を作る。


 無井灶,作瓦鬲,受四五升以食。坐則箕踞,以足挾肉而啖之,得凍肉,坐其上令暖。土無鹽鐵,燒木作灰,灌取汁而食之。俗皆編髮,以布作襜,徑尺餘,以蔽前後。將嫁娶,男以毛羽插女頭,女和則持歸,然後致禮娉之。婦貞而女淫,貴壯而賤老,死者其日即葬之於野,交木作小槨,殺豬積其上,以為死者之糧。性凶悍,以無憂哀相尚。父母死,男子不哭泣,哭者謂之不壯。相盜竊,無多少皆殺之,故雖野處而不相犯。有石砮,皮骨之甲,檀弓三尺五寸,楛矢長尺有咫。其國東北有山出石,其利入鐵,將取之,必先祈神。

 井戸も釜戸もなく、甗(蒸し器)を作り、四、五升を蒸して食べる。坐るときは両脚を投げ出して座り、脚に肉を挟んで食べる。冷凍肉はその上に坐って暖める。大地には塩も鉄もなく、木を焼いて灰を作り、その灰汁(あく)を注いでこれを食す(鹿児島県にモチゴメを灰汁に浸して炊いた「灰汁巻き」という古代の保存食がある。それに類したものか?)。

 風俗は皆、髪を編み、布で丈の短い上着を作る、径は一尺余り、これで前後を覆う。嫁を娶るときは、男が毛羽を女性の頭に挿し、女性を連れて帰り、その後に婚礼で女性を美しく飾る。妻は貞淑だが女性は淫乱、若さを尊び、老い賤しむ。死者は即日、野に埋葬する。木組みの小さな槨(ひつぎ)を作り、豚を殺し、その上に積み、死者の糧となす。

 性は凶悍(かん)、悲哀の表情を顔に出さない。父母が死んでも男子は号泣しない、泣けば勇者ではないと言われる。互いに秘かに盗むが、これを殺すことは一切ない。野に暮らすといえど、互いを侵犯することはない。石砮、皮骨の鎧、檀弓は三尺五寸、楛矢(こし)は長さ一尺有寸。国の東北に鉱山があり、鉄鉱石を採掘し、必ず先に神に祈る。

 周武王時,獻其楛矢、石砮。逮於周公輔成王,復遣使入賀。爾後千餘年,雖秦漢之盛,莫之致也。及文帝作相,魏景元末,來貢楛矢、石砮、弓甲、貂皮之屬。魏帝詔歸於相府,賜其王傉雞、錦罽、綿帛。至武帝元康初,復來貢獻。元帝中興,又詣江左貢其石砮。至成帝時,通貢於石季龍,四年方達。季龍問之,答曰「毎候牛馬向西南眠者三年矣,是知有大國所在,故來」云。

 周の武王の時代、楛矢と石砮を献じる。周公が成王の補佐していた時代に再び遣使が朝賀に来た。その後一千余年、秦漢の隆盛時といえども来貢しなかった。

 三国魏の文帝が丞相となるに及び、景元5年(264年)、楛矢、石砮、弓甲、貂皮の類をもって来貢。魏帝は相府で詔をし、帰りには、その王の傉雞に、錦、毛織物、綿織物、絹織物を賜る。

 武帝の元康の初年(291年)、再び来貢して献納(『晋書』武帝紀は咸寧五年(279年)12月、粛慎が祝賀に来貢、楛矢や石鏃を献上した」とあり、翌年春、太康に改元されており、本文の元康初は太康初の誤記とされる)。

 東晋を建国した元帝の中興(319年)8月、また江東に詣でて石砮を貢献。

 成帝の時(326-342)、後趙の石季龍(石虎)に通貢。ちょうど四年目の通貢だった。季龍はこれに問うた、答えて曰く「毎候 牛馬は西南に向かって三年も眠りますが、その牛馬が大国の所在を知っているのです。(四年目に目を覚ました)それ故に来貢しました」という。


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